[紹介]NHKスペシャル「密使 若泉敬 沖縄返還の代償」
2010年6月27日 リブ・イン・ピース@カフェ
※この報告は、6/27リブインピース@カフェでの報告後に加筆したものです。

沖縄返還密約の核心は基地の自由使用、侵略戦争の出撃基地として利用し続けること

<関心>
 番組は、沖縄返還交渉時主として核密約をまとめ、後に自責の念に駆られ『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を著し、95年の少女暴行事件ののち自ら命を絶った若泉敬に焦点をあてる。若泉は核密約によって沖縄返還をまとめたと達成感を感じていたが、92年の会合で、返還交渉での米国の真の目的は核密約ではなく「沖縄基地の自由使用を獲得することであった」という衝撃的な事実を、当の交渉相手であったモートン・ハルペリンから聞かされ愕然とする。ハルペリンは親友であったという若泉をまんまと出し抜き、歴史的な密約を日本に押し付けたのだ。イラクやアフガンへの出撃も米兵犯罪も基地被害も、すべては、一切制約を受けずに在日米軍基地を使用できるというこの密約に根源を持つ。そして「基地の自由使用」の密約は、米軍の駐留と基地の使用を日本防衛と極東の安全保障に限った日米安保第6条(極東条項)をも逸脱している。当時米国はベトナムへの出撃と台湾・朝鮮半島有事への出撃拠点として沖縄の基地を自由に使用できる条件を維持したかったのだ。そして日本への核持ち込みに関しては、当時既に対ソ核攻撃をどこからでもできるという態勢が整備されていたことから、特に沖縄に持ち込まなければならない戦略的理由は低かったという。むしろ核カードを切ることで、「基地自由使用」の密約をカムフラージュすることができると考えたというのである。
 「9条は沖縄にはない」という言葉を沖縄の人たちから聞いた。それどころか、沖縄には安保条約さえ存在しない。沖縄にあるのは、憲法も安保条約も日米地位協定も超えたおびただしい数の密約だということではないか。NHKは番組全体を若泉の個人的苦悩として仕上げているが、沖縄返還によって裏切られた沖縄、密約によって置かれている沖縄の惨状、そして米国の侵略戦争の拠点となり続けている実態を真正面から問題にしてほしかった。日米関係における異常な対米従属構造を規定する密約の開示と破棄する必要を痛感した。

<内容紹介>
 1969年、佐藤・ニクソン日米首脳会談で沖縄返還が合意された。
 その後、出てきた若泉の役割をしめす米国の文書(佐藤が若泉に交渉を一任した信任状)、40年後の昨年、佐藤宅から出てきた文書(若泉が作った有事の核持ち込みを認めた密約文書)によって、返還交渉にのぞんだ日本政府の姿がしめされた。その後、番組担当者との会見に応じたアメリカの元政府高官モートン・ハルペリンは、「返還交渉で核以上の成果をあげた。アメリカの外交的勝利は日本の基地をより自由に使えるようになったことでした」という。1992年には、自ら作成した文書を公開していた。
 1972年、沖縄返還の実現で、“沖縄の無名の多くの人達の願いに応えられた“という達成感を感じていた若泉は、その後のこれらの文書等で明らかになった事実と、基地に苦しむ沖縄の現状を見続け、考えがかわる。密約までして得た返還が、結果として基地の固定化につながったと、自責とおわびの念に追い込まれる。そして、沖縄の現状に向き合おうとしない人々に絶望し、「本土」を「愚者の楽園」とまでいう
 若泉は返還交渉から25年後の1994年、交渉のすべてを公表する著作『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を公刊した。批判をあびても社会に問題を提起し、国会で問題になること、真剣に考えるきっかけになることを願っていたという。しかし、政府も官僚も学者も一般の多くの人も「黙視黙殺」した。1995年、少女暴行事件を機に沖縄では反基地の声が大きくなっていた。癌末期と言われた若泉は、責任の取り方を考え、沖縄県民と大田知事等にあてた「遺書」とも言える「結果責任を取って自ら命を絶つ」という手紙をのこして自ら命を絶った

<番組で提示された経過・存在が明らかになった「文書」・関係者の「証言」>
 1945年 地上戦で20万人以上が犠牲。敗戦後は米の占領・統治下におかれ土地が収奪され沖縄本島の五分の一が基地となる。
 1965年 佐藤は日本の悲願と、沖縄返還を最大の公約にかかげる。
   「非核3原則」を掲げており、沖縄の核の撤去を要求し、返還交渉にあたった。
   交渉が難航し、佐藤は若泉を密使として派遣した。
   若泉も4ヶ月以上難航した。交渉相手のモートン・ハルペリンから「核の再持込が必要な時にはそれを日本が認める」という「密約」が提示された。
   若泉は、「密約」なしに返還はない、これが日本の政治の不可避の現状なのだと考える
 1969年11月6日、若泉は佐藤に会い、「合意議事録」にして首脳2人がサインすることを進言した。一任され、返還の道筋をつくった。
 1972年5月12日 沖縄、本土復帰。
   佐藤・ニクソン日米両政府首脳は「日米合同委員会覚書」をかわした。(そこには、「嘉手納・・普天間・・沖縄88ヶ所の基地が期限を定めず使える」と取り決めされていた
   若泉は沖縄の辛苦をなめた多くの無名の人を思い、達成感をかみしめていた。
 1974年、佐藤は「非核3原則」を通したとノーベル平和賞を受賞。
 1980年 若泉は佐藤の死後に残されていた「日記」を閲覧。11月6日の記述に失望、反感も。日記には若泉が精魂込めた返還交渉のことがほんの一言触れられていただけだった。中央政界から退く。
 1992年 東京で、沖縄復帰20周年の式典がもたれ日米政府関係者が参加。
   「沖縄返還を検証する会議」が合わせてもたれた。若泉も12年ぶりに公の場に参加。
   その席で、交渉相手であったモートン・ハルペリンによって、沖縄返還交渉の基本戦略を示した米の文書「国家安全保障決定覚書」MSDM13号が配布された。
   モートン・ハルペリンは「米が最も重視していたのは、沖縄に核を置き続けることではありませんでした。当時、米では核ミサイルをどこからでも発射出来る体制が整いつつありました。沖縄に核を常に配備する必要はなくなっていたのです。」と。
   そこには、核撤去の方針を降ろさず、それを明かさなかった理由が示されていた。
   「朝鮮・台湾・ベトナムとの関係において日本の軍事基地を最大限自由に使用できることを希望する。ベトナム戦争を戦うアメリカにとって沖縄は不可欠の拠点。返還後も基地の使用をみとめさせるため“核”を交渉カードに使った」と。
   モートンは「我々の最大の狙いはアメリカが核の撤去を受け入れる条件として、軍事行動のため、出来るだけ柔軟な基地の使用を日本に認めさせることでした。我々が極東で展開するすべての軍事戦略は日本にある米軍基地に依存していたからです」と。
   若泉は、1969年5月28日にすでに決められていた返還交渉の戦略の全貌を初めて知り、愕然とした。
 1994年  若泉は、まずは返還をと、「密約」まで結んで返還させた沖縄が、結果的に基地の固定化につながったと自責の念をつよめていた。そして著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を公刊。
 2010年 今回の番組の取材に応じたモートンは「返還によって結果的に、アメリカは日本との同盟関係をより強化することができました。これが、その後現在まで続く日米関係の原点となったのです」と。

<沖縄基地自由使用の意味>
 この番組を見て、日米交渉の裏面をみたというか、こんな日米関係なのかと驚き、愕然とした。それでも、なぜ鳩山も菅も歴代首脳も沖縄問題でなにも言えないのか、約束したという「自由な基地の使用」とはどういうことか、「本土なみ」というが、憲法や安保条約は適用されるのか、NHKの番組の限界を感じ、疑問が大きくなった。
 リブインピース@カフェでの報告の後『「沖縄苦難の現代史―代理署名拒否訴訟準備書面より』(岩波同時代ライブラリー)を読んだ。一部を抜粋する。

 「・・・B−52戦略爆撃機が・・常駐態勢をとって連日ベトナム爆撃を繰り返した。米軍が自由使用できる沖縄の米軍基地は、米国によるベトナム戦争に欠くことのできないものとなっていた。沖縄の軍事基地としての重要性は、米軍が何ら規制を受けることなく自由に行動できるという点に存したのである。このことは、1965年に米国民政府広報室が公式発表した米国の沖縄管理についての質問(「米国は琉球に基地を置き、それを維持するためになぜ琉球を統治する必要があるのか。米国は琉球を日本に統治させ、日本で行われているように琉球でも基地を維持しないのか」)に対する回答のなかでも、左記のように明確に述べられている。
『(1)―略―
 (2)―略―
 (3)・・必要な状況に応じて遅れることなしに軍隊やあらゆる種類の兵器を、自由に基地に運べること、・・必要なあらゆる地域に対し、自由にしかも遅れることなしに兵力、兵器、補給品、航空機、船舶などを送れること、・・・・。
 (4)a、米国によって統治されている限り、沖縄はこれらの条件に合致する。もし、日本が統治するならば、1960年に締結された日米安保条約に基いて起こってくるあらゆる問題について協議が必要となってくる。
  b、―略―
 (5)日本の国内にある米国基地と琉球にある基地との間には大きな相違があることを知るべきである。日本にある米軍は、当初1951年に締結され、1960年に改定された日米安全保障条約に基いて、日本のみの防衛について助力する責任があるだけである。他方、琉球にある米軍は、韓国、台湾、フィリッピン、いくつかの東南アジア諸国それに日本と米国との間で締結された安全保障条約に基いてほとんど西太平洋全般にわたって防衛について援助する責任をもっている
 (6)米軍が他の国との間で締結している条約に基いて行われることと一致するような方法で、事前協議なしに米国が沖縄を自由に使うことが許されることを条件として、日本に沖縄の施政権を返還するような特別協定に調印するかも知れないということが示唆されている。しかしながら、・・・・・困難である。』
 「密約」を交わし、日米交渉に関与した米国側担当者が“米国の外交的勝利”と言っている。

 『沖縄密約』(西山太吉著)のなかにも以下の記述がある。
 国内の“本土並み要求”に対し「日本政府は『安保条約とその関連取り決めは、本土と同じように適用され、事前協議にも例外はなく、・・』の一点張りで押し通した。しかし、・・彼等が一様に強調したのは、共同声明と“ワン・セット”とされていた佐藤の記者会見での「発表」であった。それにより、彼等の目的はほぼ達成されていたのである」。彼等とは米国側のことである。佐藤の記者会見は、安保条約や「共同声明」を補完するように、朝鮮半島有事には「米軍が日本国内の施設区域を戦闘作戦行動の発進基地として使用」する、ベトナムでの米軍の犠牲と誠実な努力に敬意を表するなどの表現で、安保条約では想定されていないベトナム、朝鮮半島、台湾への出撃基地として在日米軍基地の利用を認めることを示唆したのである。

 さらに同書には、沖縄返還問題を綿密に調べ検証した米外交秘密文書『沖縄返還──省庁間調整のケース・スタディ』(1972年に国務省内で作成)で、米国は「沖縄だけでなく、日本本土で利用可能な米国軍事施設の使用を最大限にするため、沖縄返還への合意が必要である」とまで望んでいたという。つまり、米国は沖縄返還をテコにして一気に日本全土の米軍基地の自由使用に道を開こうとしていたのである。「核抜き本土なみ」どころか「本土の沖縄化」を目論んだのだ。

<すべての密約を開示させ破棄させる必要>
 これらをみれば、「本土なみ返還」というのは真っ赤なウソで、また、日本政府は、沖縄を売り渡し、安保条約の制約からさえ適用除外においたのだといえる。沖縄の復帰運動を担った人々は、日本国憲法への復帰をめざしていた、望んでいたといわれている。沖縄の普天間基地撤去・辺野古の新基地建設反対運動を共に闘うこと、憲法の適用を求めていくこと、憲法を守る立場で、安保条約・日米関係を見直していくことがとても大切なことではないかと思えてくる。そしてなによりもすべての密約を開示させ、全貌を明らかにし、破棄させる必要がある。
 いろいろな人と、考え、話し合っていけたらと思う。リブインピース@カフェで、憲法について話し合った影響も大きい。