2010年11月7日 川田文子さん講演会
ペ・ポンギハルモニの記憶をふたたび心に刻んで
〜沖縄・渡嘉敷島の「慰安婦」と「集団自決」〜

 会場いっぱいの人の参加で、熱気ある講演会でした。
 日本軍の無謀さと理不尽さによって被害を受け、人権をないがしろにされた、沖縄と慰安婦のおかれた状況について話されました。時間が足らず予定のお話が全部聞けなかったのは残念でした。 (以下お話の要約)

 太平洋戦争開戦以降、1944年、慶良間の島々に日本軍が駐屯し、米軍の来襲に備えて海上特攻艇の基地にされた。こんな小さな島に友軍が守りに来てくれたと住民は歓迎したものの、実際は、島ぐるみが動員されることとなった。兵士の宿舎に民家や国民学校が使われ、生徒は庭やお宮で授業を受けることになった。1000人弱の兵士の入島により、農作物の供出を強いられ、食料不足の状態になった。日本兵が栄養失調で死亡することもあったが、最も飢えていたのは重労働を強いられていた朝鮮人軍夫であり、食料をめぐるトラブルで日本軍による朝鮮人軍夫の処刑も行われた。
 1944年11月に慰安所が設置された。渡嘉敷島の仲村家は軍の要請で新築間もない家を「慰安所」にされた。軍の要請は命令で拒否できず、一家は漁業組合の事務所に移り住むこととなった。島の女子青年団は風紀が乱れると「慰安所」設置を抗議するが、「むしろあなた方の身を守るため」と説明され、阻止運動を中止した。
 1945年3月、米軍は慶良間海峡を艦船の停泊地として確保するため徹底的に慶良間を空と海から激しく攻撃した。「慰安所」も爆撃を受けた。3月27日、渡嘉敷島に米軍が上陸した際、日本兵から手榴弾が住民へわたされ、慶良間、座間味、渡嘉敷島で集団自決が起きた。それは「鬼畜米英」の洗脳や「生きて虜囚の辱めを受くるな」と捕虜になることを禁ずる戦陣訓が住民へ強要された結果であった。県民の行動はすべて軍命によって規制されていた。しかし、教科書記述の書き換えなど、現在でも「集団自決」の日本軍関与を否定する動きがある。 
 渡嘉敷島の「慰安所」にはアキコとよばれたペ・ポンギさん、当時30歳、キクマル28歳、カズコとハルコ23歳、スズラン20歳、アイコとミチコ19歳がいた。
 沖縄に残された「慰安婦」被害者の最初の証言者であるペ・ポンギさんは、韓国忠清南道(チュンチョンナムド)で生まれ、6歳の時、母と3歳の弟と暮らしていたが、突然、母親が姿を消して弟と2人で暮らすことになった。8歳の時「ミンミョヌリ(預婦)」として他家に預けられたが何度も返され、父親から殴られた。17歳で結婚、夫は出稼ぎに出たが仕送りはなく、兄夫婦の家に居候、肩身が狭いため幼い友人と村を出た。たどり着いた宿屋の夫婦の世話で農家の三男と結婚。「ぐうたら」な男で19歳の時に見切りをつけてその家を出た。その後あっちこっち転々とした10年間の空白がある。
 1943年、日本人と朝鮮人の2人の男に声を掛けられる。釜山の旅館でコンドウという日本人の楼で働かされる。1945年、渡嘉敷の慰安所に連行された。戦後、収容所に収容され、収容所を出てから沖縄の焼けた町をさすらう。ことばは通じず、地理もわからない。知る人はなく所持金もない状態で、空腹を満たすためにサカナヤー(売春をともなう当時の酒場の通称)で働くしかなかった。
 ペ・ポンギさんが亡くなられて19年もの歳月が経過、私たちは未だに「慰安婦」被害者に対して、国家としての謝罪や補償を届けられずにいる。被害者はみな80代、90代となり、否応もなく訃報に接している。

 沖縄のおかれた状況やペ・ポンギハルモニの人生を知ることによって、なぜ私たちが「慰安婦」被害者に対して謝罪が実現できないままなのか、なぜ沖縄の痛みに対して他人事でいるのかを見つめ直す講演会でした。

《感想文》
★沖縄から見える「慰安婦」、ペ・ポンギハルモニの話にはとても関心があり、本日来させていただきました。もう少しペ・ポンギさんの話が聞けたらなと思いました。私も在日韓国人なのですが、父方のハルモニと身振り手振りで話した時に、「自分もカミを短くし、顔にすすをつけて、この(大きな)カマに隠れたことがある」と言われたことが思い出され、この問題に関わることで、きっと日本軍から隠れたんだと気づきました。もうハルモニはいません。知ってる「慰安婦」のハルモニも高齢になってきています。司会の方が冒頭言ってたペ・ポンギハルモニが亡くなって20年の来年、日本政府にこの罪を認めさせる運動にさらに力を入れていきたいと思います。
★ お話の中で、軍隊は住民を守るものではない、戦争のないところに戦争をもってくるものだというのがありましたが、そういう観点が戦後数十年の中でどんどん風化してきたように感じています。それについても川田さんがどう思っていらっしゃるか、さらに、そういう軍隊観が過去の軍隊についてだけのものにとどまらず、現在の軍隊にも当てはまるものだということを広めていくにはどうすればいいのか、何かヒントになるようなことも教えていただければ、などと思っていました。
★川田さんのお話は、まるでペ・ポンギさん本人が体験したことを本人が話されているようなリアルさでした。ペ・ポンギハルモニが亡くなられても、川田さんが彼女の体験や思いをしっかり伝えてくださっている。驚きでした。
★自分自身在日朝鮮人なのですが、沖縄の在日朝鮮人のことを全く知らないこと、沖縄の歴史をほとんど知らないこともあり、ついていくのが大変でした。ただ、すでにお亡くなりになっている方の話を直接本人から聞くわけでもなく、また、ずっと一緒にいた川田さんにも語れずにいる部分などもあることから、残念な思い、くやしい思いもあります。
今後の問題解決が誠実に進められるようがんばっていきたいです。
★講演有り難うございました。ペ・ポンギさんの生き方がよくわかりました。
★「慰安婦」の方、特に朝鮮人女性の人が人間以下の扱いを長い間受け続けてこられたことを詳しくお話頂きよかったです。そして、日本人として政府が「慰安婦」問題を解決しお詫びせねばならないし、忘れてはならない犯罪であることを心に刻んでおかなければならないと改めて思いました。できることは未来の世代にきちんと責任をもって伝えることだと考えました。それから、私は劣化ウランを禁止する運動をしています。もしできれば朝鮮人の被ばく者の思いや補償要求運動について教えていただければさらにうれしいです。
★ペ・ポンギさんの写真を見られて、とてもうれしくありがたく思います。
また、本当にすごい取り組みをされてこられたこと、ペ・ポンギさんの故郷まで行かれてお話を聞いてこられたりされたこと、とても心に強く残りました。お姉さんの写真、とても印象的です。私自身もなぜかペ・ポンギさんを思い起こすことが最近ありました。貴重な集まりに感謝いたします。
★写真を見せていただいて、ペ・ポンギさんの表情の厳しさに胸が締め付けられるような思いでした。家の窓を閉ざして真っ暗な中で過ごしておられたということも本当に、耳にしてつらいお話でした。新城さん、そして、川田さんの存在がせめてもの、ペさんにとって心の救いだったことを思います。
★大変濃い内容で、何度か息をするのがしんどくなりました。しかし、今日来てよかったです。しっかり受け止めて、「慰安婦」問題の早期解決に向けてまた今日からがんばります。
★在日コミュニティの売春制度や在日女性の戦後について研究しています。本日は大変充実したお話で勉強になりました。
★私は一昨年渡嘉敷島、今年宮古島のアリランの碑を訪れました。海の青、空の青の中で静かに手を合わせましたが、本当に胸が締め付けられるようでした。誰のために何のために朝鮮の女性がこのような目に遭うのか…。これからの平和をつくるために微力ですが、私も語り伝えたいです。川田文子様ありがとうございました。お元気でまたお目にかかりましょう。

2010年12月23日
リブ・イン・ピース☆9+25
  (リブインピースだより第14号より転載)