『川柳人鬼才〈鶴彬〉の生涯』
岡田一杜、山田文子編著(日本機関紙出版センター)

[紹介]川柳で侵略戦争と闘った若者、鶴彬没後70周年




 今年は、鶴彬(つるあきら)没後70年にあたる。1938年9月14日、鶴彬は赤痢に罹患し、豊多摩病院のベッドに手錠でくくりつけられたまま絶命した。川柳を武器に侵略戦争へ向かう時代と徹底して闘ったこの若者のことはそれほど知られていない。鶴彬は柳名であり、本名を喜多一二(きたかつじ)という。享年わずか29歳であった。
 鶴彬は、37年12月、いわゆる『川柳人』弾圧事件の主要人物の一人として治安維持法違反で逮捕され野方署に留置された。不潔不衛生で有名な留置場で赤痢にかかり病院に移送されたのだった。逮捕の直接の契機となったのは、37年11月、『川柳人』281号に記された以下の一連の作品であり、柳誌『三味線草』によるその告発と言われている。


手と足をもいだ丸太にしてかへし──侵略戦争の実態とその背後の国民生活を告発
 高梁の実りへ戦車と靴の鋲
 屍のゐないニュース映画で勇ましい
 出征の門標があってがらんどうの小店
 万歳とあげて行った手を大陸において来た
 手と足をもいだ丸太にしてかへし
 胎内の動きを知るころ骨(コツ)がつき


 激化する中国への侵略戦争、その被害者でもある国民の真実の姿を詠ったものである。皇国は若い男たちを強制徴用し、その挙げ句手足をもいだ丸太同然の体にして親族や郷里に返す。天皇制国家権力の理不尽をわずか一行で訴える。
 戦争は泥沼化し、限りない戦線の拡大は人と物の徴発を招き、労働力不足は生産力の低下となった。物不足は国民生活を破壊した。

 フジヤマとサクラの国の餓死ニュース
 エノケンの笑ひにつづく暗い明日
 税金のあがっただけを酒の水
              『火華』第三巻五号より 1937年5月


 天皇制国家は、赤裸々に真実を伝える川柳の批判性が大衆に与える影響を恐れ、戦争と世相を痛烈に批判する川柳誌を逐次、発刊停止処分にしていった。
 鶴にとって川柳は「厳粛な現実批判の諷刺短詩」であり、「その諷刺性は、わずか一呼吸の短い時間に『うた』を完了せねばならないといふ制約のために、もっとも短く鋭い、寸鉄殺人的諷刺」であり、「何よりも印象的な簡潔さと発條の如き圧搾的弾力をはらむ、手榴弾の詩」であり、「勤労大衆の胸に、おぼえられ易い言葉と音律をもって、とび込んで行く寸劇詩」であった。(「川柳における諷刺性の問題」『詩精神』二巻六号)

「川柳は一つの武器である」と宣するまでの苦闘
 鶴の人生はわずか29年。高等小学校を卒業するまでの14年間を引くと、自覚的人生を歩んだのはたったの15年間。この間に4年間の軍隊生活があるから、彼が自分の人生を己の意志で歩み得たのはわずか10年(後述するが軍隊でも自分の「意志」は発揮している)。鶴はいわゆる「反戦・反軍川柳」「プロレタリア川柳」の詠い手とされるが、何も一直線にこの道に進み得たのではない。幾多の挫折、闘争、論争を経た後ようやくこの境地にたどりついたのだった。その足跡を概観したい。
 軍隊生活で分断されたわずか10年の間に、彼が成し遂げた仕事は、詩作品14篇、川柳作品1044句、評論作品85篇というおびただしいものである。鶴は常に理論を先行させ、目的・手段を明らかに示しつつ、実作によってそれを跡付けるという手順を歩んで来たといわれる。そうであるなら、その仕事全体に亘り、かつ評論と実作(川柳)を関連付けながら論評しなければならないのだが、実作(川柳)における変遷のみを見ても、(1)目にし、心に映った寸景をそのまま表出した習作時代、(2)虚無的社会的な心情を歌った時代、(3)生命主義に透徹した時代、(5)写実主義・プロレタリア川柳へ到達した時代、と区分できる。私たちが注目すべきはやはり(5)の時代であり、なかでも1933年の除隊から1938年に生涯を閉じるまでの「最後の5年間」である。「この最後の五年間は、鶴彬にとって、ただ一路、プロレタリア川柳の発展と成長のための文字通り苦闘の時期であった。そして、この苦闘の中で、かれが残した数多い作品は、その密度の高いプロレタリア・レアリズムで、一定の完成度を示している。」(「反戦川柳作家 鶴彬」深井一郎著 日本機関紙出版センター 1998年 p43)

鶴彬最後の5年間――プロレタリア川柳の発展と成長のために
 1930年1月、金沢の第七歩兵聯隊に入隊した鶴は、いわゆる「赤化事件」のため軍法会議にかけられた。鶴が日本共産青年同盟の機関紙『無産青年』数部を数回にわたり秘かに隊内に持ち込み、外部のナップ、全協のメンバーらと連絡をとりつつ、軍隊内で読者を獲得しようとしたというものである。このため軍法会議にかけられ、懲役二年の判決を受け大阪の衛戌監獄に送られた。軍隊生活の大半を監獄で送ったのである。
 彼が軍隊の門を出た前後は、日本共産党の佐野学・鍋山貞親などの転向が喧伝されている時期であった。赤色リンチ事件が新聞面を賑わし、治安維持法の改悪が実現し、文部省に思想局が設けられた年であった。「彼は羽ばたく術を奪われ、庇護者としての剣花坊を失い、日々の糧を自分の肉体を酷使することでしか手にしえない、切羽つまった状態におかれていたのである。」
 そんな中で彼は、直ちに創作を始め、評論を書き、旺盛な論戦を始める。創作における試み(これは必ず論争を伴った)は、「三行書き」「諷刺短詩」「自由律」「連作」など、その間自らの川柳を掲載するための『蒼空』の創刊、そして「定型律形式及び図式主義」に関する論争、なかでも木村半文銭の「思想第一・形態第二と考え、川柳を思想伝達の具に利用している」との非難に対し、敢然と「芸術の優位性は宣伝性に正比例する」と主張し「大衆性と反撥する芸術性はあり得ない」と鶴が諭した鶴・半文銭論争は特筆に価する。
 以下は、鶴の最後期の評論の抜粋である。少し長くなるが、かの時代にこのような光輝ある評論を残し得た鶴の最期を改めて悼みたい。
 「ぼくらはこうした自由の敵、文化の敵、光りの敵と闘ふことに、はげしい勇気と高いほこりを感じている。この敵と闘ひ、それに打ちかつことを一生の仕事と考えてゐる。そのためには、何よりも大衆にわかりやすい川柳を、その胸をどきつかせ、はげまし、手と手を握り合はせる川柳をつくらねばならぬと思ふことしきりである。これが現代の正義を愛し、その正義のために闘ふ多数の側につき、それらの進んだ集団の一員としての最も重要な役割をはたすことであると考へる」(「大衆的・芸術的表現について」『火華』二八号)
 「すくなくとも川柳によって文学生活を営み、その川柳を娯楽の水準以上に高め、もって現代の正しい文化的創造へ参加しようとする僕らにとって、川柳は必死な生き方の一つの方法であり、その生き方をさへぎる敵を刺す一つの武器でなければならない」(「川柳は一つの武器である」『火華』二九号)

 最晩年の鶴は文字通り川柳を武器とし、人民の視座に立ち、天皇制軍国主義・日本帝国主義の恥部を彼らの前に容赦なくさらけ出し、侵略戦争と植民地支配の生み出す一切の不条理を暴き出した。

 涸れた乳房から飢饉を吸うてゐる
 修身にない孝行で淫売婦
 凶作を救へぬ仏を売り残し
 みな肺で死ぬる女工の募集札
 待合いで徹夜議会で眠るなり
 ざん壕で読む妹を売る手紙
 召集兵土産待つ子を夢に見る
 ヨボと辱められて怒りこみ上げ朝鮮語となる
 母国掠め盗つた国の歴史を復習する大声
 葬列めいた花嫁花婿の列へ手をあげるヒットラー
 ユダヤの血を絶てば猛犬の血が残るばかりなり


 彼の活躍は突然終焉を迎える。1938年12月3日早暁突如検挙されたのである。しかし、鶴は、自らが倒されてもなお、その志を継ぐ者が次々と現れ出ることを確信して止まなかった。

 地下へもぐって春へ春への導火線
 暁をいだいて闇にゐる蕾
 枯れ芝よ!団結して春を待つ

2008年10月10日
(M)