工藤律子さん「1990〜2008 キューバが語ってくれたこと」
[投稿]「革命50年・ゲバラ生誕80年記念友好フォーラム」に参加して

ソ連の崩壊によって訪れた「スペシャルピリオド」の危機
 取材でキューバを訪れたのは1990年7月26日の革命勃発記念の日だ。その年は、ハバナの革命広場で式典が行われて、ソ連が崩壊する直前だったので、盛大なカーニバルと式典を90年代でやった最後の年だ。カストロが演説を3時間ぐらいした。キューバのことを余りよく知らず学生をしながら取材をしたものだから、6時から9時ぐらいまで延々としゃべるカストロを観ているのが大変でなんと元気なおじさんなんだと思った。
 1991年にあるキューバの家族に出会った。彼らの暮らしているのはハバナの下町と言うべき、セントラバーナという地域。下町というべき庶民の、裕福ではない人たち、黒人、混血、色んな人たちが入り交じって、暮らしている庶民的な町です。色んな人たちがお互いに助け合って生きている場所です。
 1991年から93年、2年ぐらいソ連と東欧の社会主義が崩壊しまして、本当に何もない、一番どん底の時代でした。もちろん下町の生活はものすごく大変で、当時は配給以外何も食べるものを買う手段がなかった。配給以外では闇というものもありますが、配給しか食べ物は手に入らなかった。配給の量とか値段はほぼ今も同じなんですが、お米一人一ヶ月3キロ、豆500グラム、等々。片手で数えられるぐらいしか食料品の配給がない。キューバ人は豚肉が大好きなんですが肉は0で、新鮮な野菜とかも0で。配給があれば、あと10パーツぐらいあれば、食費が足りるという人も。当時月給が190ペソ。肉を全く食べないというのは、相当苦しく、お金がある人は闇で買っていた。闇の値段も一ヶ月おきに値段もどんどん上がっていき。1993年肉500グラム約1$。ペソの価値が下がり「ペソが紙くずだ。」パンの配給は一人1こ。外で買えるご飯は豆ご飯ぐらいしかなくて、ほとんど店は閉まっていました。80年代は開いていたと思うんです。何も売られていない、閉まっていた店。ソ連から来ていたガソリンとか。ソ連・東欧社会主義国に貿易の85パーセントぐらい依存してました。それが全部無くなったおかげで全然入ってこなくなった。バスも滅多に通らない。その代わりみんなが自転車を使おうと言うことで、90年代前半ほとんど自転車がたくさん走っていました。今は無いのですが、当時はキューバでも自転車を作っていまして、自転車工場もありました。石油が入らないと言うことは火力発電所が動かないということで、停電もすごくひどくて、一時は地区によって、一日13時間しか電気がこない場所があるぐらい。テレビの放送自体も一日数時間ぐらいしかないなんていう時期もありました。その当時、はやっていたのは、日本の「おしん」でした。夜のテレビをする時間帯というのがあるのですが、街灯もない真っ暗な町の中で各家々にテレビの明かりがぱっと点いてそれを観ている家族の姿がうかぶ。視聴率が80パーセント以上。おしんと一緒に頑張ろうという時代でした。

キューバにおける格差の拡大
 その時代は、筏難民ですね、ここまで経済的に苦しくなると出て行きたい、と言う人も増えました。バルセーロと呼ばれた小舟に乗ってマイアミを目指す人たちがたくさんいた時期です。今の小学生が生まれたのはそれよりずっと後、1990年代の後半以降です。ですから彼らが生きた時代はソ連があったときも知らないし、今お話ししたどん底の、どんどん底も知らない。その後、少しずつ生活が、経済的にあがり始めた時期と同時にキューバの人々の間に格差が見え始めたそういう時期を生きてきた世代です。
 変化が見え始めた頃、重要な出来事はまず米ドルー外貨をキューバ人が使っていいということになった。93年の8月に、もともとマイアミとか欧米に親戚などが結構多いキューバ人、海外から送られてくるドルを持っている人がいたんですね。以前はキューバ人自身が使って買い物をすることが出来なかった。でもこれ以降、使っていいという時代になって、ドルでお買い物が出来るショッピングセンターとかが次々とハバナでは建っていった。地方でもドルの店が出来てきました。かつてはこういうところは外国人しか利用できなかったのですが、今はお金さえ持っていれば、買い物が出来るということです。
 もう一つ大きな出来事は自営業、何もかもが国営だったのですが、このころから自分で色んな職業が、最初は140種ぐらいの職種において自由業が許可されたのですが、最初は20万人の人たちはじゃあやろうということになった。色んな商売を始めました。
 もう一つ食べ物の問題ですが、それまで91年以降ずーっと、普通に配給以外で買える店は閉鎖されて、なかったけれど、このころから復活され、有機農業などで野菜が作られることもあり、94年の10月から、肉や野菜果物が自由に売り買いできました。お金を持っている人は食べたいものをこういうところで買うことができるようになったのです。 
 そういう中で結局、お金を持っている人たちは、ドルを両替してペソで買う。あるいはドルショップで買うということができるなったのです。しかし、全員がみんな外貨を持っているというわけではないので、持ってない人は相変わらず配給だけで耐えしのがなくてはならい。格差というものをだんだん生んでいった。
 最初はハバナを歩いていたらみんな細かったのですが、94年以降になってくると、細い人とそうじゃない人の格差がでてきてるのですね。エアロビックスの教室もできた。とても奇妙な時代になりました。痩せたいと言う人がいる一方で相変わらずもっと肉とか食べたいという人も大勢いて、そういう人たちのためにというか、政府の方は配給で肉のまがい物を大豆と鶏肉を混ぜた挽肉を作りまして、そのほかにも色んな物を大豆で作ることを始めました。配給で月に一度そういう物を、ところがキューバ人は日本人と違ってあまり大豆を食べ慣れてないものですから、おいしいと思えない、はっきり言って豚肉とは違う。
 彼らの生活をもう一つ変えたのは観光ですね。90年代の最初は、何十万というレベルだったのですが、96年にはついに100万人を突破。これだけ資本主義の国から色んな物や価値観の違った人が来ると、特に子どもたちとか若い人たちは、こういう人たちに何かちょうだいと言ってみたり、色んことをするようになって、考え方が資本主義的なものを吸収していくようになっていく。学校なんかは、そういうところを見た結果としてもうちょっと学校で勉強する時間を長くして、あんまりそういうことばかりに時間を費やさないでという政策も採られたりしました。
 1998年に、革命以来初めてローマ法王がキューバに来ました。洗礼ブームというか、そもそもキューバ人はカトリックの信心深い人とかいなかったのですけど、ローマ法王が来たとたんに、カトリックの信者でもなんでもないのに、やたらに洗礼をしたがっている。
 そんな時代に大きくなったユウヒが小学校に入ります。これだけ格差が見え始めると、子どもたちの生活の中でも、感じられるようになりまして、たとえば学校というのは誰でもキューバは無料でみんなが入れる。金持ちであろうが、貧乏であろうが誰でも入ることができる。同じ学校に行き、同じ制服で行き、同じ教科書でお勉強しているのですけど、たとえば、おやつの時間とか、おやつは自分でおうちから持って行かなければならない、おやつの内容とかをみると多少、違うというか、ドルショップで買える家の子どもたちはクッキーとかジュースとかを持ってくるのですけど、そういうことがない家庭だと親が無理して頑張って自分の分を、自分の配給のパンを子どもに回して、パンとミルクを持ってくる。持って行かない訳にはいかないので。そういう中に差が見えてくる。
 給食はそれなりの物がでている。レストランでピザとかを食べている子はまずいとかいったり残したりしてる、逆に給食がその日の唯一の食事だぐらいの家庭の子は全部食べている。

格差の中でも、貫かれる助け合いと平等の精神
 家の中は家具とか家電製品に違いがある。テレビや冷蔵庫が普通にあったりする家庭もあれば、ソ連製のモノクロテレビがあるだけで、冷蔵庫もないうちもある。ただ、それでもみんなで助け合うことを幼いころから、「チェのようになろう」というスローガンの下にやっぱり自分のことだけでなくみんなのことを考えるのだということが一番正しいのだというふうに教わっていることが一番すばらしいなあ、と思っています。勉強するのでも遊びをするのでも、持っている子は持ってない子に貸してあげていっしょにやると。そういうところは格差が見えている中でも保たれている平等の精神かなあと思います。
 今流行っている「ナルト」と言うアニメで、みんな「ナルト」が大好きでDVDの海賊版を借りてきてみんなで観ています。去年は米国のテレビドラマが流行っていまして、それもみんな海賊版のDVDを借りてきて観ています。ある意味情報が色んな物が入ってきて、借りられる人が借りてみんなで観るということが行われています。
 今でも生活自体はさきほどの配給の量とかはほとんど変わりません。ただ、政府もいろいろ苦心して最低賃金を上げるとか、いろいろやっているのですが、基本的な生活は十分とはいえないところがキューバ人にとって苦しいことかなあ。
 教科書にカバーをつけている。教科書もちょっと問題で10年ぐらい内容が変わっていない。毎年自分が2年生で使ったら、来年2年生の人に自分の教科書を渡すのですね。先輩からもらって使い回しをしているのですね。ですからなるべく痛まないようにもらった子はカバーをつける。最初もらった一週間ぐらいみんないっしょうけんめいカバーをつけています。
 なかなか物資的にも苦しいところがあって。去年ハリケーンが立て続けに3つぐらい来たのですけど。災害が来るとさらに物資の不足が深刻化するのがつらいところだなあと思っています。直接被害を受けたのは地方の農村とか町だったのですが、屋根とかが飛んじゃったりして、直している最中に次が来る、ということで大変でした。社会主義のいいところは、そういうときに食料とか足りない食料を被災地にまず優先的に回すと言うことをして、一番困っている人たちに、一番ではないけれど困っていない人が回すと。そういうとこがすごいなあ。災害でだめになった作物が多いし、少ししか残っていない作物をこちらに回すのですから、ハバナ中どこを探しても卵が一つもない時期もあったりして。一番大変な人たちには最低限の物を配るいうことが行われていました。
 キューバの姿を通して何を私たちが考えるのか、考えられるのかと言うときに私は、今お話ししたどんなときでも自分よりもみんなのことを考えて生きると言うことが大事なんだというチェの考えでもあるのですが、そういう考え方を大変な状況の中でも続けているキューバ。色んな問題があります。キューバのことを私がとやかく言っても始まらないので、そんなキューバを観て、私が感じるのは、逆に私たち、もうちょっとそういう風になれないのだろうか、と言うことです。家で虐待を受けて路上で暮らしている子どもたちが多いメキシコを取材をずっとしているのですが、メキシコはそれを象徴していて経済破綻を、米国発の経済破綻でグローバリゼーションという条件の中で、日本人も私たち自身も、周りで苦しい目に遭っている人がいます。なぜそもそもそうなのかと考えたときに、今の日本の状況下で首を切られている人たちをどうしたら救えるのかとなかなか思いつかない、思いついてもやる気がない、そういう中で耐えられるのかと考えたとき、もうちょっとキューバ人ほど我慢しなくてはいいけど、分かち合える暮らしを考えることが出来るのじゃないかと、いう風に思いました。今のグローバリゼーションというのは、人と人を分断していくグローバリゼーションだと思います。同じ国の中、同じ地域の中、世界の中で隣の人と自分がある物にアクセスできる、できない、圧倒的な格差をどんどん生み出していくそういうシステムです。本当のグローバリゼーションはそうではなくて、人と人がつながっていける、助け合っていけるそういうものでなければならないと思います。そのことを考えるにつけて、キューバの人たちの戦いを観ることは私たちの刺激になる。ユウヒが大人になるころはわたしたちがもうちょっと謙虚になり、キューバも物質的にも最低限暮らしていける豊かさがある世界になればいいなあという風に思います。

(2009年1月24日「革命50年・ゲバラ生誕80年記念友好フォーラム」より 文責:リブ・イン・ピース☆9+25 T.N.)