沖縄訪問記
〜「オスプレイ配備反対沖縄県民大会」参加に際して〜

宮森小学校ジェット機墜落事故資料展示室訪問記
 今回の「オスプレイ配備反対沖縄県民大会」に参加するに際して、ぜひ訪れたいところがありました。1959年6月30日に宮森小学校ジェット機墜落事故が起こりましたが、その資料展示室が昨年設けられたと聞いていましたので、それを見学したいと考えていました。

 宮森小学校は旧石川市(現うるま市)にあります。石川市、具志川市、勝連町、与那城町が2005年に合併して「うるま市」になりました。資料展示室は、旧石川市役所の庁舎に設置されています。

 9月8日(土)の夕刻、石川庁舎に行きました。閉まっている庁舎で警備の人に声を掛けると、脇のドアがひとつ開いていて、そこから自由に入って見学させてもらえました。この展示室をつくった「630会」に事前に電話連絡して聞いていたとおりでした。

 1階ロビーに展示があって、机上から天井までの横幅7〜8メートルほどのボード3面分の簡素なものでしたが、当時の生々しい写真や目撃証言、琉球新報や沖縄タイムスの写真入りの記事など、息をのんで立ち止まり、見入るしかないようなものばかりが並んでいました。

 破壊された校舎、散乱する瓦礫、その中で呆然と立ちつくす教員、修羅場となった教室を覗く人々、担架で運ばれる小学生、治療を受けている子ども、願い空しく我が子の最後を見届けなければならなかった母親、焼け出された周辺住民のための仮設テント、などなど。

 当時の小学生や教員の生々しい証言録も展示されていました。片付けられていない瓦礫がまだ残る運動場で遊ぶ子どもたちの写真には、「小さな物音でも逃げ出す子どもたち」「毎日ビクビクした学校生活を送っていた」と解説がつけられていました。

 1959年6月30日、宮森小学校に米軍ジェット機が墜落しました。校舎3棟をはじめ民家27棟、公民館1棟が全焼、 校舎2棟と民家8棟が半焼、18人が死亡し200人以上が重軽傷を負いました。(直後の死者が17人、このときの重度の火傷がもとで数年後に死亡した人が1人。)

 パイロットはパラシュートで脱出しました。機首を人家のない丘陵地帯に向けてから脱出したとされていますが、宮森小学校に墜落しました。積んでいた50`爆弾を墜落する前に海上投棄していたことが後に明らかになりました。

 今回のオスプレイ反対運動に際して、1959年に起きたこの宮森小学校の惨劇が、2004年の沖縄国際大学ヘリ墜落事故とともに、あらためて想起され大きくクローズアップされました。

 この資料展示室には、沖縄戦と沖縄戦後史の写真集があわせて置いてありました。それは、戦中だけではなく戦後もずっと「戦争状態」に置かれ続けた沖縄を糾弾しているかのようでした。翌7月1日の琉球新報の記事は、「まるで戦場そのまま / 戦争だ!と叫ぶ児童」という見出しで報じていました。

 「本土」の捨て石にされ、米国にいわば「戦利品」として差し出され、「本土復帰」後も米軍基地の大半を押しつけられてきた沖縄。その積もり積もった怒りが噴出し、爆発している。それはもう後戻りしない沖縄だということを、ここでも痛感しました。


嘉数高台から普天間飛行場を一望
 9月9日(日)は、県民大会のあと嘉数(かかず)高台へ行き、普天間飛行場と宜野湾市を一望しました。ここは沖縄戦で最初の大規模な戦闘があったところです。その展望台から普天間飛行場を見ました。

 既にテレビ映像などで見知っている光景ですが、現場でじかに見ると違った感覚が生じてきます。うまく言葉にはできませんが、「やはり、そうか。」というような感慨です。町の中心部の広大な一等地を占拠している米軍基地、その周辺に密集する民家。

 前日に見てきた宮森小学校の悲惨な写真が頭に浮かびました。さらにまた、日常的に危険な状況のもとにさらされる暮らしが強要されているということに、言葉にできないような怒りと悲しみと悔しさとがわき起こります。ここにあのオスプレイが配備され日常的に飛び回る、それは本当にぞっとするようなことです。

 普天間基地の危険性がネット上で議論される際によく持ち出される暴論が、自然に頭に浮かんできました。「そんな危険なところに住まずに引っ越せばいいのに。」とか、「戦後直後の普天間飛行場の写真を見たことがあるが、はじめは民家などなかった。あとから人々が周辺に住み着いた。」とか。

 戦火を逃れて疎開しているうちに土地が奪われ、住んでいた場所に戻ることもできなくなった人々。先祖代々の墓まで基地内に取り込まれ、自由に墓参することも許されない人々。どれほど悔しい思いで周辺に住み続けていることか。そんな歴史的な経緯も具体的な事情も知らずに勝手な議論が横行する・・・。

 日曜日で米軍は活動していないので静かでした。今度機会があったらぜひ平日に来て、実際に米軍機が離着陸を繰り返すところを見聞したいと思いました。


沖縄国際大学でモニュメントを見る
 嘉数高台から徒歩で沖縄国際大学へ向かいました。午後3〜4時ごろの日差しは、まだとてもきつく、木陰を見かけては休憩しました。さわやかな風が吹いて、木陰では気持ちよく昼寝ができそうでした。

 2004年8月13日、大型米軍ヘリが沖縄国際大学に墜落しました。沖縄国際大学は普天間飛行場のすぐ近くにあり、嘉数高台からもよく見えていました。周りには民家が密集していて、その民家や周辺道路にもヘリの破片が落ちました。2年ほど前に当時の具体的な状況を聞く機会がありましたが、2階に寝かしていた子どもを母親が抱いて1階に避難した直後に、破片がその2階に飛び込んできた家があったと聞いたときには、ぞっとしました。

 大学の道路沿いの一角に、焼けただれた木を中心にモニュメントがつくられ、誰でもいつでも見学できる、ちょっとした休憩所のようになっていました。当時の状況を伝える写真や説明が、石造りの碑に、はめ込まれ刻み込まれていました。

 当時の悲惨な状況は、もう写真でしか見ることができません。墜落したヘリの残骸や焼けただれた校舎の壁など、生々しい写真が数枚埋め込まれていました。

 焼け残った木は、翼をもがれた鳥が空を見上げて何かを訴えているかのように見えます。おそらくは「沖縄の空を返せ!」と叫んでいるのではないでしょうか。そんなことを思いながら沖縄国際大学をあとにしました。

(H.Y.)