リブインピースの沖縄ツアー
  (高江ヘリパッド基地建設反対&米軍基地見学)に参加して

2016年11月25日(金)〜27日(日)

 安倍政権は沖縄の高江の森にオスプレイ用のヘリパッド6つを年内に完成させ、それと引き換えに不使用になった北部訓練場の一部を返還するという方針を、「SACO合意」だとして力で押し付けようとしている。12月22日にその返還式典を沖縄で行おうとしている。
 住民の米軍基地ヘリパッド建設反対運動は大きな山場を迎えている。私達リブ・イン・ピースの6人のメンバーは、高江の座り込みの闘いに1日であっても参加したいと思って、11月25日から27日にかけて沖縄を訪れた。
 そこで体験したことを報告し、本土のマスコミが報道しない沖縄の現実を少しでも、何よりも本土の多くの人に知って欲しいと思っている。

その前夜
 11月25日(金)午後、私達は関空を出発し、17時頃に那覇に着いた。それからレンタカーを借りて名護市に直行した。夕食は沖縄名物料理の定食を食べ、コンビニで翌日の朝と昼のお弁当を買って、海辺にあるホテルに行き、そこで泊まった。
 11月26日(土)、まだ夜も明けやらぬ4時頃に起きて朝食のパンを食べ、ベランダに出て空と海を眺めた。星空がとてもきれいで、波の音も穏やか、今日はいい天気だねと喜んだ。

名護から高江へ──「平和市民バス」に乗って
 早朝5時40分に名護のホテルを出発し、朝6時頃に名護市庁前のバス停で、「沖縄平和市民連絡会」がチャーターした大型バスに乗った。
 那覇から出発して高江までを結ぶこの「平和市民バス」は、オスプレイ・パッド建設に反対する市民のために、月・水はマイクロバス、土曜日は大型観光バスを、本日11月26日から12月いっぱいは無料にして増便するとのことであった。何としても建設を止めたいという決意が伝わってきた。

車中の交流
 バスには、沖縄各地区と、東京、京都、大阪、神奈川、名古屋など本土各地からの参加者が那覇から乗り込んできていた。私たちがそれぞれに空席に座ると、バスはほぼ満席になった。
 車中、隣り合った参加者と様々な交流ができた。県民の人からは、前仲井真沖縄県知事の父親がラジオのパーソナリティーをやっていて、その人気も前知事の当選の要因であるという話を聞いた。
 また、石川県から一人で来ている女性とも話ができた。彼女は辺野古、高江の状況に居ても立っても居られない気持ちで、今年1月に20年ぶりに沖縄に来始めて、それ以来何度も来て基地建設反対運動に参加しているとのことであった。彼女は沖縄の女性の友人が出来てメールなどで現地の様子を教えてもらっており、名護警察署に拘留されている沖縄平和センターの山城博治さんたちを解放させるために、その留置場に向けて毎夕、抗議集会とデモがおこなわれていることなどを知った。
 このようにバスに乗り合わせることで様々な情報を得られてたいへん有意義であった。現地に来ると、リアルに反対する意義を実感できる。

「山に入る」人達
 1時間ほど走って、新川(あらかわ)ダムの駐車場でトイレ休憩となった。ここで、約半数の「山に入る」人達がバスを降りて行った。「山に入る」とは、やんばるの森の中にあるN1ヘリパッド建設現場の近くまで山道を通って行き、実際に建設現場に入って、工事車両を座り込み・非暴力で止めようとする闘いのことである。
 安倍政権が12月22日の「式典」に向け、完成させるために、遮二無二強行している現状で、N1ゲートでの座り込みで砂利など搬入させない活動と、実際に建設現場に入る活動とが結合して闘われることが重要であることを痛感した。

N1ゲート前の座り込みへ
 私達はまたバスで県道70号線を通ってN1ゲートへ向かった。8時ころN1ゲート前に着くとすでに100人以上の市民たちが道路脇に座り込んでいた。道路脇に足場板が何列か並べてあり、道路の向かいにテントが張られ、奥に仮設トイレなどが設置されていた。私達も空いた所を見つけて、一緒に座り込んだ。ゲート入り口には機動隊の車列が並び、私たちに向かってはASLOKの警備員が並んで立っている。
 「島ぐるみ会議」の人たちが世話役をしていて、沖縄平和運動センター事務局長の大城悟さんが道路の向かいで司会をし、参加者が次々とアピールをしたり、歌を歌ったりした。

参加者は沖縄全土・全国・海外から
 「島ぐるみ会議」のうるま市、国頭、北谷、浦添、東村など沖縄各地区から参加してきた住民が自分達の取り組みを報告した。
 沖縄選出の糸数慶子参議院議員と赤嶺政衆議院議員が、宮古島自衛隊ミサイル基地の建設反対運動との連帯を語った。
 本土各地からきた市民も次々とアピールをしていった。辛淑玉(シン スゴ)さんが、元首相村山富市氏の「山城博治さんを早く釈放しなさい」とのメッセージ、部落解放同盟西島書記長の「土人発言やシナ人発言は絶対に許さない」とのメッセージを紹介してくれた。東京からは、もうすぐ90歳を迎える関東一坪地主運動の上原信成さんや東京の九条連の方がアピールした。
 大阪からはSADLの3人が「毎週土曜日、大阪から沖縄を考える企画を開催している。市民同士をいがみ合わせて弾圧するのが安倍政権の政治なので、沖縄のそこ抜けに明るい闘いを紹介したい」と述べた。
 たくさんの参加者が、全国から、海外から集まっていた。

メインゲート前の抗議行動へ 
 大城さんが、「砂利を積んだダンプが8時5分、国頭村(くにがみそん)の採石場を出た」と言った時、参加者に緊張が走った。後1時間もすれば、ダンプカーがN1ゲートに入ることになるのだ。
 そして、実際にはダンプカーが12台、メインゲートを通ったという情報が、正午頃に伝えられてきた。大城さんから説明をうけて、座り込んでいた人達の大部分は、N1ゲートから2q南にあるメインゲートまで、バス、車、歩行で移動した。日陰で座っていると涼し過ぎるぐらいだが山中の県道を歩くと汗ばむ。
 私達が歩いてやっと辿り着いた時、警察車両などに立ちふさがれ、ダンプカーを護衛する機動隊と車両の間から抗議する市民たちの姿が目に入ってきた。

大阪府警の機動隊だ!
 なんと大阪府警の車両と機動隊だった。機動隊バス車両1台は久留米ナンバーだったが、通信用マイクに「府警」と書いてあったので大阪府警機動隊員がいることがわかった。機動隊員らは3列の縦隊で腕を組み、市民を通行させないようにしていた。機動隊員が市民を押して、一時もみ合いになった。安倍政権・国家権力の強引さを肌で実感した。
 私達は持参した「大阪府警は高江から去れ」というプラカードを掲げて抗議に加わった。悔しいけれどダンプカーは次々通過していった。機動隊の人間の壁に守られ、荷台の空のダンプ4台が、メインゲートから出てきた。その後、機動隊は阻止線を解除して、市民を通行させた。約20分間の抗議行動であった。

 



再びN1ゲートへ──「山に入った」人たちとの合流
 再びN1ゲートに戻って、13時頃からアピール行動を再開した。バックパッカーだった青年や東村(ひがしそん)の方がアピールしていると、突如、「山に入った」人達30名くらいが、にこやかに山の中から現れて、座り込みに合流した。座り込みは200名くらいになった。
 「山に入った」人達の報告は力強いものであった。今日は63名が山に入った。今日は初めて工事車両を止めることが出来た。全員無事に帰ってきた。工事現場は、完成を急ぐあまり杜撰で強引なやり方をしていた。オスプレイがヘリポートの土を巻き上げるので芝生を張っているが沖縄特有の赤土が流れて定着せず、完成していない。張った芝を剥いで遣り直しをさせられていた。明日雨が降れば土が流れて工事が遅れる。年内完成は無理だろう。の事。こうした報告が参加者の拍手喝采を浴びた。この中には劇団石(トル)の主宰者きむきがんさん(大阪在住)も居り、山に入った思いを語って、自作の歌『人間をかえせ』を力強く歌った。

 

 韓国から来た「富平(プピヨン)米軍基地返還仁川(インチョン)市民会議」の若者の沖縄訪問団は、“平和と環境を守ろう、沖縄・日本・韓国がつながった”と力強い連帯のアピールをして歌を歌った。
 本土の若者が歌い、沖縄の方のリードで全員が『沖縄を返せ』『座り込もう』『今こそ立ち上がろう』などを歌った。
 14時30分、那覇に行く沖縄市民連絡会のバスが迎えに来てくれて、私達は一足先に朝のメンバーと共に出発し、途中の名護市庁前で降ろしてもらった。
 那覇に向かう人たちは、那覇署に不当逮捕されている仲間達を激励して、シンポジウムに参加する予定だと言っていた。時計は16時を指していた。

山城さんにこの声届け!──名護署前での行動
 私達は当初予定していた辺野古行きを中止し、名護警察拘置所に不当逮捕されている山城さんたちを激励する行動に参加することにした。
 名護署前に行くと、数人の人が、これから名護市街をデモして回ると言う。私達も後ろについて歩いた。“米軍基地反対! 山城さんの不当逮捕に抗議する!”などを訴えながら、1時間ほど歩いて名護署前に戻った。小人数のデモだったが、シュプレヒコールをしていると店の中や車の中から手を振ったりするなど支援の挨拶があった。市民の暖かい視線を感じた。
 18時ごろ名護警察署に戻ると、そこには30人位の人が集まっていた。山城さんたちに届くようにと、拘留されている2階に向かってマイクで“今日も頑張ったよ! 頑張って!”と叫ぶように声を張り上げた。
 食事の時間中には外の声が聞こえないようにラジオを大音響で鳴らされているということで、みんなで留置場に近い裏に回り、激励の行動を続けた。裏門からみんなで順番にマイクで声をかけた。
 山本太郎参議院議員、辛淑玉さん、きむきがんさんなど、参加者が増え、100人ほどになってきた。辛淑玉さんが弟のように接してきた方も拘留されていた。つらい人生を送ってきた彼が山城さんを慕って沖縄に来たことを語り、早く釈放されるようにとマイクに向かって叫んでいた。この叫びに胸を打たれた。
 参加者もひとりひとり、「頑張って!」と、ひと言ずつだったが励ましの声を届けた。聞こえているだろうか? 周りの人もそうだけど、私も涙がでそうだった。
 抗議と激励の行動が終わった時、19時を回っていた。さすがに少し疲れと空腹を感じた。私達は昨日と同じ店に行って、夕食に沖縄料理を食べ、レンタカーでホテルに戻った。

嘉手納から普天間へ
 11月27日(日)、この日は反対運動の人たちが言っていたとおり、朝からずっと激しい風雨であった。これで高江の工事が遅れたらと願う。気温は昨日の26度から13度に下がっていた。
 朝9時にホテルを出て、レンタカーで嘉手納基地と普天間基地を見て回る予定だ。

道の駅「かでな」から見る嘉手納基地
 まず、道の駅「かでな」に行き、そこで沖縄の友人と落ち合った。道の駅の屋上からは嘉手納町の83%を占める嘉手納基地が屋上から一望できる。基地は松林の向こうにフェンスに囲まれて遠くにまで広がっていた。4qの滑走路など広大でとてもすべてを見渡せるものではなかった。(以前はこの基地を見るのには県道74号線の基地フェンス脇に小高く作られた通称「安保の見える丘」からであったが、2003年にこの施設ができた。)設置されている3階の学習展示室へ行き、基地の頑丈なフェンスの実物や戦闘機の写真を見た。

普天間基地周辺──沖国大、嘉数(かかず)を訪問
 次に宜野湾市へ行き、普天間基地の周辺4か所を巡った。
 まずは、沖縄国際大学に立ち寄った。2004 年8月13日、沖縄国際大学の本館に米軍ヘリが墜落・炎上した。現在は抗議のメモリアルとして、焼けたあかぎの木と焼け跡のついた校舎の壁の一部が校門横に設置されていた。
 その次は第二次大戦時本土決戦の激戦地であった嘉数台地を訪れた。高地で眺望が良いため、戦争中は日本軍の高射砲のトーチカ(塹壕)が造られ、米軍上陸後は激戦地となった。
 嘉数高台公園には徴兵された朝鮮青年戦死者の碑と京都府の戦死者の碑がある。そこからは住宅街に囲まれた普天間基地が一望できた。オスプレイが並んで駐機していた。雨と風は止みそうにもなかった。
 公園下の沖縄そば屋で昼食をとった。毎食沖縄の味を堪能している。豚肉のらふてーなど全く腹に残らない健康食である。

「沖縄戦の図」を常設展示する佐喜眞美術館
 午後は、まず、普天間基地に隣接する佐喜眞美術館を訪れた。これは、佐喜眞氏が米軍から返還された土地に建てた平和を希求する美術館である。先祖の亀甲墓も返還され西向きで美術館前にある。
 そこには丸木位里・俊さんの絵画「沖縄戦の図」が常設展示されており、2月28日まで、ケーテ・コルヴィッツなどの展示が行われている。
米軍基地のフェンスに囲まれているような町
 そして最後に米軍基地のフェンス横にある民家を訪ねた。そこからは嘉数台地の反対側から普天間基地が間近に見える。眼下すぐは金網フェンスで囲われた広大な米軍基地で外周道路をYナンバー(米軍関係の車)が通る。
 この日は日曜日で米軍は休みだった。オスプレイや戦闘機などは飛ばないので静かだったが、平日の滑走路下では騒音が相当のものだと想像できる。
 まるで米軍基地のフェンスに囲まれているような道路や市街地を走りぬけてのあわただしい旅であった。米軍基地の74%が集中する沖縄、実際の米軍機の飛行、騒音は体験しなかったが、基地の圧迫を少しは実感できた気がした。
 17時15分の飛行機に乗って無事帰阪した。

 この報告を書いている時、琉球新報が、沖縄県警が辺野古テントなど5か所を家宅捜索し4人を逮捕した、高江で2人を逮捕した、翁長知事がヘリパッド建設容認に転じたと伝えていた(この後、翁長知事は容認はしていないと抗議)。一瞬は、愕然として、出会った人たちの顔が浮かんでとても心配になった。しかし、弾圧によって強行しても、平和と自然を守るという沖縄県民と平和を願う市民たちの気持ちは変えられない。“我慢の限界を超えた”という沖縄の現状をこのまま続けることは許されない。知らない、関心がないということは、加担につながる。本土の私達も共に、何かできることをやっていこう。

2016年12月11日
リブ・イン・ピース☆9+25 あ・KB・Y

ツアー参加者の感想
  政府は12月20日までに高江のヘリパッド基地を完成するとしており、反対運動に対して強権を振るい現地は緊迫しています。運動のリーダーの山城さんを長期拘留し、10人近い人を6警察署に別々に長期拘留しています。今、運動はどうなっているのだろうと、ずっと気にかかっていて、このツアーに参加しました。1日中座り込みと抗議行動に参加し、いろんな人の話を聞き、歌を聞き、また一緒に歌いました。沖縄の運動は厳しいことが続いているけど、歌あり笑いありで、楽しくそして逞しいなあと感動しました。
 基地見学では、嘉手納も普天間基地も内陸の広大な土地、昔沖縄の人々が暮らし栄えていた土地を奪われ、今、人びとは基地の周りに張り巡らされて金網フェンスのそばで、へばりつくように役所も畑も街も存在していることを実感しました。(Y)
 運動にとって、やはり「数は力」だということを実感しました。参加した日は土曜日ということもあり、N1ゲート前に100人以上が座り込みました。ダンプはN1ゲートに入ることをあきらめ、代わりにメインゲートに入って土砂を置いて帰りました。山にも63人が入り、工事を止めたということです。これだけの人が集まると、さすがに防衛局や機動隊も無茶なことはできません。
 一方で、毎日これほどの人を集めるのは難しいと思われます。高江は遠いです。私たちは、8時にN1ゲートに着きましたが、それでも大変。日常的には7時や6時に集合して、工事を止める態勢を組んでいると聞きます。これを毎週や毎日のように繰り返している人がたくさんおられるということに、本当に頭が下がります。
 高江に何度も行くことはできなくても、全国から多くの人が高江に注目しているということを、日本政府・沖縄防衛局や機動隊に知らしめて、工事の強行を抑えていくしかありません。(ウナイ)