紹介
映像'19『ある徴用工の手記より〜日韓の間に何が起きているのか』

 2018年10月、韓国大法院(最高裁)が、戦時中に日本の企業に動員され働かさせた元「徴用工」の原告らに対し慰謝料を支払うように日本の企業に命じる判決を下し、それ以降日本と韓国の関係が急速に冷え込んでいます。安倍首相は、「国家間の約束を破っている」「国際法に違反している」と韓国を非難し続けています。マスコミも同じ主張を繰り返し、その結果、世論調査でも多くの人が安倍政権の対応を支持しています。
 しかし、徴用工とはどんな人で、どのように働かされ、何を訴えているのか、などについて、詳しく知っているひと、それほど多くないと思います。
 今年7月大阪の毎日放送(MBS)のドキュメンタリー「映像'19」で『ある徴用工の手記より 〜日韓の間に何が起きているのか〜』という番組が放送されました。この番組は、1990年日本で出版された鄭忠海(チョンチュンヘ)さんの「ある朝鮮人徴用工の手記」を元に、日本と韓国に何が起きているかをたどるというものでした。ここでは、番組の内容を要約し紹介します。
番組HP

2019年10月28日
リブ・イン・ピース☆9+25 S


手記の著者、鄭忠海さんについて
 番組冒頭で、「徴用」とは、国家権力により国民を強制的に動員し一定の業務に従事させることと説明される。戦時中、日本は国民を軍需産業などに動員していた、1910年〜35年の間、日本の植民地だった朝鮮の人々もその対象となった。
 鄭さんは、今から75年前、1944年12月に広島の軍需工場で働かされた。 手記には
 今、日本全土では空襲が始まり、それは焦土作戦だという。それならわれわれが行くところはどこになるのか、日本本土のどこかの工場か、炭鉱か、わざわざ爆撃を受けに行くようなものになり死にに行くようなものである。
とあり、徴用令状が来て徴用されたことがうかがえる。

そもそも朝鮮人の労働者は、なぜ日本に動員されることになったのか?
 1934年10月頃までは朝鮮人の内地への移住、渡航を抑制する方針が取られていた。「朝鮮人の内地渡航を一層減少スルコト」と日本政府の閣議決定がされていた。
 しかし、1937年に日中戦争がはじまり軍事衝突が長期化し、国内の労働力が不足、日本は動員政策の変更を迫られることになった。
 1939年7月、日本政府は国家総動員法に基づいて「国民徴用令」を出し、この年の動員計画では、新たに学校を卒業する男女や農村の人々を徴用し軍需工場などで働かせることを決めた。植民地の朝鮮人については動員目標を8万5千人とした。
 1944年になると、既に太平洋でアメリカとの戦争を始めていた日本は、さらなる労働力の確保に迫られた。この年の閣議決定で朝鮮人労働者を29万人動員する計画を立てた。

朝鮮人労働者の動員手法はどんなものであったか?
 1938年に日本で制定された戦時体制下の統制法「国家総動員法」に基づき、朝鮮人労働者を動員した。3つの手法があった。
(1)民間企業が朝鮮に渡り、実施した「募集」。1939年1月〜1942年2月まで
(2)朝鮮総督府が各市・郡などに動員数を割り当て、行政の責任で民間企業に引き渡した「官斡旋(あっせん)」。1942年1月〜1944年8月まで
(3)日本全土で施行された国民徴用令に基づき発動した「徴用」を適用。1944年9月から朝鮮で実施1945年3月まで

手法の違いがあっても暴力や脅迫を伴うものであったことが証言によって明らかにされている
動員者による証言

・1942年4月
 金が儲かるから日本に行って働らくように持ちかけられた、もし行かないと断っても強制的につれていかれるだろう、とあきらめ、日本に行くことを承諾した。警察と聞いただけで縮み上がった。
・1942年7月
 日本人警官2名と面事務所(村役場のこと)の役人がやってきて連行していきました。すでに15名の青年が連行されていました。行きたくないと拒否するとおまえらが行かなければ親兄弟を皆殺しにするぞと、脅しました。
・1943年7月
 近所の田植えをするために手伝っていた。そこへ日本人の巡査が来て私に用があるからついてこいと言う。ついていったら留置場に閉じ込められた。翌日、トラックで全羅南道の麗水港に連れて行かれ船に乗せられ、ようやく手錠を外された。

日本の外交史料館にある証言
・1944年内務省の嘱託職員が朝鮮に出張したときの報告
 如何なる方式によるも出動は全く拉致同様な状態である。それはしかし事前において知らせれば、彼らは逃亡するからである。そこで夜襲、誘い出し、そのほか各種の方策を講じて人質的掠奪拉致の事例が多くなるのである。

1965年「日韓請求権協定」が締結。背景はどのようなものであったか?
 1950年、アジア太平洋戦争後南北に分断された朝鮮で、南北の間に朝鮮戦争が起こる。3年後の休戦までに数百万人が犠牲となった一方、日本は朝鮮戦争特需を足がかりに戦後の経済成長を遂げる。
 1965年韓国は、朴正煕(パクチヨンヒ)軍事独裁政権の下で日本との国交を正常化。その時「日韓請求権協定」を締結。これに「請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」と書かれていた。
 「日韓請求権協定」の締結がされる前まで、韓国は日本に対し「植民地支配は不法で無効」と強制動員などの賠償を請求していた、日本は「植民地支配が合法」と主張していた。結局その議論が棚上げされ、日本が総額5億ドルの経済協力を行うことで双方が合意し協定が締結された。
 太田修同志社志社大学教授は、
 日本は、「わが国にとっても過去の償いということではなく、韓国の将来の経済および社会福祉に寄与するという趣旨ならば、かかる経済協力ないし援助を行う意義ありと認められる」という日韓交渉終了後外務省が作った資料により、結局「植民地支配は正当であり植民地支配・戦争責任は問われるべきでない」という考え方。そして韓国も、1960代の朴政権が経済的に非常に苦しい状態の中で、「北朝鮮と国家の正当性を争う中で重視すべきは経済開発」だという考えを持っていた。1965年の日韓請求権協定は「過去の克服」をめざすものではなかった、といわざるを得ない。

原告代理の林宰成(イムジェソン)弁護士にインタビュー
 韓国の人にもインタビューするということで林氏に意見を聞いている。
 林氏も太田教授と同じく1965年日韓請求権協定は日本と韓国の植民地の合法性に異なる見解があったのに締結したことを問題視している。
 1965年の協定の特徴は「異見合意」です。日本帝国主義が朝鮮を植民地にしたことが不法なのか合法なのか両国の意見が異なったまま、それについて最後まで合意を見ずに異見が存在したまま協定を結ぶ手法でした。そして2018年の最高裁判決で確定した最も重要な点が植民地支配の不法でした。

日韓請求権協定見直しの動き
 韓国は、1970年代に強制動員の被害者のうち死亡者に30万ウォン(現在の22〜28万円)を支給、2000年代には遺族や、障害のある被害者本人に一定の支援が行われた。
 1965年の日韓請求権協定を見直す動きが強まり、2013年ソウル高裁で戦時中に徴用工だった原告男性4人に慰謝料を支払うよう今の日本製鉄に判決が出された。
 韓国では、元徴用工たちが韓国政府の責任を問う別の裁判も起こされている。

2018年10月韓国最高裁判決
 「不法な植民地支配に直結する反人道的な強制動員に対する慰謝料請求権は残っている」として今の日本製鉄の上告を棄却、その結果徴用工だった原告とその遺族に1人あたり1億ウォン(約1000万円)を支払うよう命じる判決が確定した。
 日本政府、安倍首相は1965年に締結された日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決されたとし「今般の判決は国際法に照らしあり得ない判断であります。日本政府としては毅然と対応していきます」と発言。
 また、安倍首相は原告となった元工員4人について、「政府としては『徴用工』という表現ではなく、『旧朝鮮半島出身の労働者』で、4人はいずれも『募集』に応じたものだ」と指摘、「募集」の期間中に働きに来た労働者だから強制ではない、「徴用工」にはあたらないとした。
 この安倍首相の「徴用工」にあたらないということに対して、外村東京大学教授は、
 日本製鉄相手の裁判の原告らは1944年9月以前に日本に来たが、朝鮮での国民徴用令に基づく動員は44年9月から始まっているので、安倍首相は「徴用」ではなかったんだと言いたかったと思うけど、「募集」や「官あっせん」でも「徴用」と同様の強制力をもって国の政策として動員した実態がある。もう一つ、国民徴用令に基づく徴用じゃないので徴用工じゃないというのも違っている。43年10月に公布された軍需会社法に、国から軍需会社と指定されると、この法律の徴用規則でそこで働いている労働者は徴用された身分となる。44年1月当時の日本製鉄も軍需会社と指定された(「現員徴用」)。そういう意味で44年に日本製鉄に勤めていた原告団の言っていることは正しい。

 鄭忠海さんの手記で、広島の東洋工業に就いてすぐ工場の教官から言われた言葉「過去にはこの工場で”マツダ(松田)”という三輪オートバイを製作していたが、最近は九九式小銃を作る工場でになっており、一部では飛行機の部品も作る重要な軍需工場である…」から、東洋工業が軍需工場に指定されたことがわかる。

原告4名の内1人だけ存命の李春植(イチュンシク)さん(95才)を訪ねる
 17才の時、労働条件を知らされず動員され、2年間賃金をもらえないまま働かされた。
 (会社は)日本の国に(賃金を)預金して、自分たちにはお金が支払われなかった、預金をした分は解放されたときに渡すと言われたけど、お金はもらえなかったよ」「日本製鉄に言いたいのはこのように今も私は生きているということ、一日も早くお金を支払ってそのお金で長生きさせてあげようという気持ちでお金を払ってくれたら、気持ちも晴れるよ。

 戦時中に日本企業で働かされ賃金をもらえずに帰国した朝鮮人労働者は、日本の法務省の調べで少なくとも17万人。法務局への供託金は当時のお金で2億7800万円 にものぼる。

鄭さんの息子東明氏
 最高裁の判決後、韓国は日韓両国の企業が協力して賠償金の財源を作る案を提示したが、日本はこれを拒否した。逆に半導体の原材料の韓国への輸出手続を厳しくし、韓国が反発。日本と韓国の善隣友好を願って朝鮮人徴用工の手記を書き残した鄭さんの思いとは裏腹に、両国の関係は悪化の一途をたどっている。
 鄭さんの息子東明(トンミョン)氏は、判決が「不法な植民地政策で労働させたこと自体が不法である」と言っていることについて、
 韓国民だったらみんなそう思っている。そして日本では戦争を起こしたにもかかわらず、戦後その間の歴史をほとんど学校で教えず、何もなかったようにしている。でも韓国では徹底的に教え、日本の植民地支配は悪いことだと歴史を全部掘り起こしている。だからどんどんその間はひろがっていっているんだ
と語る。とても印象深い。

 最後に、太田同志社大教授は、
 メディア、企業、ネットの中でも、今回の判決が、韓国政府、韓国社会の対応がなにか非常に低いレベルのものであるかのように批判をしたりしているのは、ある意味では、かつて日本が植民地支配をしていた時に朝鮮半島の人々を蔑視していたことが、今日の社会においても再現しているのではないか。
 外村東大大教授は、 
 人手が足りないときにどうするかという時、朝鮮人がいるからつれてくればいい、外国に安い労働力があるからつれてくればいいという発想が、1937年に日中戦争が始まる前に既にある。外交問題としての徴用工問題だけでなく、日本の社会の問題、労働問題としての側面があり、それが現在の外国人労働者のことにもつながっているという意識を持つ必要がある。

 2人の最後の言葉に納得、共感するとともに、鄭忠海氏の息子、東明氏のことばから教育の大事さ、歴史認識の重要性を感じるとともに、日本が事実を隠さず真摯に受けとめるべきだと思った。
 個人的には、韓流ドラマや映画、料理など韓国文化に親しみ、たくさん韓国の人たちが日本を観光に訪れていることに、日本と韓国との友好的な雰囲気を感じていた。そんな雰囲気を一変させるような嫌韓満載の各テレビ局の報道には驚き、違和感を感じる。