天皇「お言葉」と日本国憲法
2016.10.02 憲法座談会 「みんなで考える自民党改憲案の危険」

政治研究者 住吉憲太郎 (2016.11.03改訂)


平成の「玉音放送」
 明仁(あきひと)天皇は8月8日、加齢や健康の衰えを主な理由として、生前退位を強く示唆する「お言葉」=天皇声明をテレビを通じて発表しました。これに対して、生前退位に反対する日本会議の一部メンバーや若干の論者を除いて、右から左まで、つまり政府はもとより、共産党を含む全政党、全マスコミ、自称リベラル派と称する論者を含めすべての論客たち、さらに大半の世論が声明を支持し、まるで挙国一致の大合唱が奏でられているようです。
 この声明は、昭和天皇のポツダム宣言受諾の「玉音放送」になぞらえて、「平成の玉音放送」と評されています。声明は単にその形式によって「平成の玉音放送」と称されているだけではなく、その内容も、単に生前退位をどのように取り扱うか、という問題以上に、はからずも象徴天皇制と日本国憲法の根幹にかかわる極めて重要な政治的問題を提起することになりました。

声明は憲法に違反しないか?
 声明には当初から、憲法に違反しないかとの疑問が付きまとっています。「今回の表明が、『天皇は国政に関する権能を有しない』とする憲法4条に違反する恐れはないでしょうか・・・天皇が望めば政府はその通り動くのだという認識が広がるとすれば問題です」(岩井克己・「朝日新聞」皇室担当特別嘱託、「朝日新聞」2016.9.18)との問題提起があります。
 もちろん、声明がこの憲法規定を強く念頭においていたことは間違いありません。現に声明は、「天皇という立場上現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えてきたことを話したいと思います」と最初に述べ、終わりに再度「天皇は国政に関する権能を有しません」と繰り返しているからです。
 声明に対する憲法学的評価については、憲法学者の間でも意見は分かれていますが、そのうちの一人は「お言葉は陛下の個人的な考えという形式をとってはいるが、生前退位を希望していることが明らかな内容であり、それを受けて政府が動き出すのは憲法第4条の規定からみて望ましくない」と指摘しています(横田耕一・九州大学名誉教授、「毎日新聞」2016.9.7)。
 では、憲法第4条は天皇の権限をどのように定めているのでしょうか。それは、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関す権能を有しない」(第4条、傍点は筆者)とあります。ところで、天皇の実際の行動には、国事行為の他、「公的行為」(国会開会式での「お言葉」、災害被災地へのお見舞い、旧戦地への慰霊の旅、植樹祭・国体への出席、内奏(後述)、今回のテレビ声明、等)、および私的行為(生物学研究や相撲見物、宮中祭祀)があります。
 このうち、「公的行為」は憲法には定められていないにも拘わらず広く行われ、同時にそれは、一般的には非政治的行為として受け取られています。だが、実は公的行為自身が、今回の「お言葉」のように明らかに大きく政治を動かす場合のほか、後に述べますが、多くの場合、国民融和という重要な政治的意味をも持っているのです。
 「公的行為」が直接、憲法に抵触するとされた事例は、日本共産党がかつて、国会開会式での「お言葉」は国事行為ではないので、開会式には出席しないという態度をとってきたことです。但し、現在では、共産党は象徴天皇制を認めるという立場から、国会開会式には出席しています。
 国会開会式での「お言葉」の内容それ自身が、憲法第4条に抵触するのではないか、との疑義が憲法学者より提出された事例もあります。それは、昭和天皇が1952年、全面講和か単独講和かで、与野党間でも世論においても国論を二分していた時期に、サンフランシスコ講和条約を歓迎する旨の「お言葉」を述べた場合でありました。

政治に大きな影響力発揮―憲法違反
 では、今回の場合はどうでしょうか。天皇の生前退位の希望の趣旨は、象徴天皇としての職務を果たすうえで、年齢や健康のため様々な制約を覚えること、天皇の終焉において殯(もがり)の行事や喪儀に関する行事が、それにかかわる人々を非常に厳しい状況に置くこと、等々でありました。このような、天皇個人の率直な心情に対して、大多数の人々が深い共感を覚えたことは、無理からぬことともいえます。
しかし、最も重要な問題は、このような心情とともに、皇室典範上の摂政制度では問題は解決しない旨を指摘していること、および皇室典範には規定されていない生前退位の希望をその内容としていること、したがって、声明が、現行の皇室制度に具体的に触れることを控える、と明言しているにも拘わらず、天皇の希望の実現のためには、どうしても何らかの法的措置が不可欠なことです。しかも、このことをテレビを通じて直接、国民に語りかける、という極めて政治的インパクトの強い方法がとられました。
今回の声明の内容と発表方式は昨年4月以来、宮内庁を中心に練りあげられたものです。天皇は退位の意向を2010年ころから周囲に漏らしていたらしく、しかし、当時はこれについて具体的には対処はされませんでした。昨年夏になって、この問題への本格的な取り組みが始まり、「国民に訴える方法としては、記者会見ではなく玉音放送の方式しかない」との意見が出された、とのことです(「毎日新聞」2016.10.16)。宮内庁は、上に指摘しましたように、憲法違反の批判が生じることを十分承知しながらも、敢えて今回のような内容と方式を採用したわけです。
この声明に応えて、安倍内閣は生前退位のための特別法の制定方針を決め、有識者会議を立ち上げました。民進党・共産党は皇室典範の改正を求めています。これらの実際の政治的動きからすれば、声明が客観的には大きく政治的影響力を発揮したしたことは否定できません。この意味で、声明は憲法第4条に違反すると言わざるを得ないのです。しかも、憲法は特別に最高法規として、天皇は「この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と明記してもいるのです(第99条)。
 このような事態が慣例化すれば、天皇の「公的行為」の衣をまとった政治的発言の繰り返しと拡大が危惧されます。これと同じ危惧の念を強く抱く研究者の発言もあります。「法改正に関係する意見表明にまでに『公務』が拡大されるべきではない。退位の希望を尊重することと、それを『公務』の一環で発言する是非は別問題だ。今回の事件をしっかり議論しないと、『公務』で天皇が政治案件の意見を表明することが慣例化する可能性がある」(小熊英二・慶応大学教授「朝日新聞」2016.8.25)。

象徴天皇制とは?
 象徴天皇制の天皇は英訳では、the Emperorとされ、the Napoleon Emperorで知られるように、逆に和訳すれば皇帝となります。だから、日本国家は形式的には、君主国であり、但し君主がその権限を憲法によって制約されているので、一般的に言えば立憲君主国になるのです。しかも、日本国憲法の場合、国民主権の原則によって、憲法第4条が天皇の政治的権能を特に厳しく禁止していますので、政治的権能をもたない君主という意味を強調するために、世界に類例を見ない、the symbol of the Stateつまり国家の象徴としての天皇=象徴天皇制が誕生したのです。
 このような象徴天皇制の生みの親は、日本国憲法草案を起草したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)です。根っからの反共主義者であった占領軍総司令官マッカーサーは、天皇の権威を利用して、共産主義革命の防止と日本国統治の円滑化を図るため、天皇制維持を強く望みました。
一方、アメリカ国内世論の多数派と米統合参謀本部は天皇制維持には反対であり、大日本帝国憲法改正に最高権限を持つ極東委員会のうちオーストラリアとニュージランドは強硬な天皇制反対論者でした。しかも迫りくる極東国際軍事裁判(東京裁判)の検察・裁判官にはこの2国を含み、裁判長はオーストラリア、さらに中国をはじめ日本に侵略されたアジア諸国民は日本ファシズムと天皇制に対して強い反感をもっていること、等々、国際環境からすれば、戦前のような専制的天皇制度の維持が不可能なことは誰の目にも明らかでした。だから、これらの国際的な反ファシズム世論を押し切って、天皇制を存置するためには、相当の離れ業をやり遂げなければなりません。その結果が、政治的権能を有しない君主としての象徴天皇制を存置すること、しかし、天皇制の存置が天皇制ファシズムの復活とならないための保障または担保として、戦力の保持と交戦権とを徹底的に禁止することだったのです。
 マッカーサーが日本国憲法制定に際して示した三原則は次のような内容でした。
1. 天皇は、国の最上位にある(at the head of the state)。皇位の継承は世襲による。天皇の職務執行および権能行使は、憲法にのっとり、かつ憲法に規定された国民の基本的意思に応えるものとする。
2. 国権の発動たる戦争は廃止する。日本は、紛争解決の手段として、さらに自らの安全維持の手段としても、戦争を放棄する。日本は、今や世界の心を動かしつつある、より崇高な理想に依拠して自らの防衛および安全を図る。日本は、陸・海・空軍のいずれも保有することを認められず、また、いかなる日本の武力にも交戦権が与えられることはない。
3. 日本の封建制度の廃止。皇族を除き貴族の特権の一代限りの存続(要約)。
 日本の憲法学会でも長い間、the head of stateを元首と訳してきましたが、これは英文上は政治的権限を持った元首という意味ではなく、国の最上位、つまり君主ということを意味しているのです。
 この基本方針によって、大日本帝国憲法における天皇主権は否定されましたが、世襲制による天皇制そのものは維持され、同時にこの憲法のおかげで、昭和天皇は東京裁判の訴追からも免れたのでした。
 したがって、昭和天皇は日本国憲法が公布された直後の1946年10月16日、マッカーサーとの第三回目の会見で、満腔の敬意と感謝の念を表明しています。「今回憲法が成立し民主的新日本建設の基礎が確立せられた事は、喜びに堪へない所であります。この憲法成立に際し貴将軍に於て一方ならぬ御指導を与へられた事に感謝したします」、と。

なぜ安倍首相は男系男子の継承制に固執するのか?
 日本国憲法は、天皇主権から国民主権に転換し、基本的人権の尊重を大原則としましたが、同時にこの原則とは全く異なる、天皇の世襲制度を定め(憲法第2条)、それに基づく皇室典範において皇位継承の順序その他を定めました。皇室典範のうちでも、最も重要なのはその第1条の男系男子の継承原則なのです。小泉内閣時に有識者会議が女性・女系天皇の容認を答申しましたが、安倍内閣はこれを封印し、今回も、安倍首相が任命した有識者会議は、女帝問題は論議の対象とはしないことを最初から決めています。
 皇室典範第1条は、天皇主義者にとっては変えることのできない原則中の原則なのです。「ご存在の尊さは男系男子による皇位継承という『血統主義』に立脚する」(八木秀次・麗沢大学教授、「朝日新聞」2016.9.11)。もし、「尊い血統」があるとすれば「尊くない血統」も存在するはずでありますが、これほど基本的人権の大原則に背く見解はありえません。憲法第14条も、国民は平等であって門地(family origin)によって差別してはならないと定めています。なお、沖縄県民に「土人」とか「シナ人」と罵声を浴びせかけた大阪府警の機動隊員とそれを擁護した松井大阪府知事の差別的思想構造は全く、「尊い血統」思想と同じ差別思想構造だと言えます。

皇位継承制は伊藤博文の創作
 男系男子による皇位継承制度は、大日本帝国憲法とこれと一体化した旧皇室典範とを起草した伊藤博文の創作に他なりません。伊藤は「日本書紀」を典拠として、男系男子による万世一系の皇位継承は「皇家の成法」なりとし、これに都合の悪い女帝も南北朝も皇家の例外としていますが(『憲法義解』)、もとより「日本書紀」自体が天武天皇の命による天皇家正当化のための政治文書ですから、これを典拠したとしても何の正当性もありません。
 現行皇室典範の審議過程では、男女平等の原則(憲法第14条、24条2項)上、女帝も認めるべきであるとの意見もありましたが、次の諸理由によって認められませんでした。@長い伝統に反するA過去の女帝は一時的・便宜的措置B一般能力・体力が象徴・元首にふさわしくないC女帝には配偶者問題が絡むD男女平等は国民一般の原則で皇室には適用されない、等々。持統天皇がABを聞けば噴き出すような陳腐な論拠ばかりであり、まじめに批判するに値しません。
 男系男子による皇位継承といっても、皇位継承者に適合した嫡子がいない場合もあり、その時に備えて、旧皇室典範は庶子(本妻以外の女性から生まれた子)の継承も認めています(第4条)。現に、明治以降でも、厳密な意味での嫡子による天皇継承は昭和天皇以降であり、明治天皇の実母は権大納言中山忠能(ただやす)の娘・慶子(よしこ)、大正天皇の実母は権典侍・柳原愛子(なるこ)でありましましたが、これ等の二人の天皇はそれぞれ皇太子に指名されること(儲(ちょ)君(くん)治定(じじょう))によって、名目上は嫡子とされました。
 なお、現行皇室典範の審議過程では、庶子の継承も論議されましたが、こればかりは、国民の道徳概念に反するとして排除されました。
 この他、旧皇室典範から削除された重要な1点は、天皇の「践祚(せんそ)」の後、つまり次の天皇が位を継いだ後、すぐに元号を変更するという規定です(第12条)。これは、元号とは天皇が時空を支配するという思想に基づくものであり、人間宣言を行った天皇(1946年)が時空を支配するとは矛盾した考え方であります。結局、GHQがこの条項の存置に反対したのです。その代わり、元号法が1979年に多くの国民の反対を押し切って制定されました。だから、旧皇室典範の一部はこのような形で蘇ったともいえます。

新旧皇室典範に宿る国体護持の精神
 天皇制が象徴天皇制に変わったにも拘わらず、新旧の皇室典範が、国体護持の精神を主軸として連続しているところに、その著しい特徴があります。現行皇室典範は、旧皇室典範とは異なって、議会の議決による法律の一種でありますので、その名称も自由に選択できた筈ですが、それにも拘わらず、あえてその名称も旧皇室典範に倣って同名としました。名称だけではなく、新旧皇室典範は実は内容においても、男系男子の皇位継承、生前退位制の否定、皇位継承順序、敬称、摂政、等の重要事項は基本的には共通しているのです。
 ところで、国体護持論者にとって、生前退位を認めることは、皇室典範の一項目の単なる改編ではなく、国体護持にかかわる重大事なのです。つまり、生前退位の前例を作れば「明治天皇の御治定にかかる一世一代の元号の問題。何よりも、天皇の生前御退位を可とする如き前例を今敢えて作る事は、事実上の国体の破壊に繋がるのではないかとの危惧は深刻である」(日本会議副会長・小堀桂一郎、「産経新聞」2016.7.16)、と言うのです。これは、明治天皇が、天皇は生存している限り天皇であるとして一世一代の元号を定めたのだから、この原則を破ることは国体の破壊に繋がる、という見解といえます。
 日本国憲法下で国体護持が主張されるのは、予想外の驚きであります。だが、国体護持の思想こそ、日本の保守政治の基層を形成するものとして、直視しなければなりません。実は、「日本会議」のメンバーが金科玉条とする日本の「国柄」というのは、この国体護持の言い換えに過ぎないという事なのです。
 国体護持の主張が歴史的にどのような政治的意味を持ったのか、ということはきわめて重要なことなのです。

<天皇機関説事件>
戦前、日本のファシズムへの突入の重要な思想的・政治的引き金の一つとなったのが、美濃部達吉の天皇機関説事件(1935年)でした。美濃部は明治憲法第4条を根拠として、天皇も憲法にしたがって主権行使を行う国家の機関である、とする自由主義的な学説を立てました。これは当時の憲法学の通説となり、高等文官試験の模範解答でもありました。これに対して右翼の学者・政治家が、この学説は国体に反する学説として、美濃部を謀反、反逆の学匪だと激しく攻撃しました。
岡田内閣はこれに対処すべく、美濃部の著書を発禁にし、美濃部は東京帝国大学教授および貴族院議員の辞職を余儀なくされました。一方、岡田内閣は「国体明徴声明」を発表、文部省は『国体の本義』を出版し、天皇制国家の原理を強調しました。それによれば、国体とは、「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、万古不易の国体」と定義されたのです。この結果、自由な言論は最後的に封殺されました。1936年に「天皇親政」を旗印とする大規模軍事クー・デタ2.26事件が起り、岡田首相は難を免れましたが、主要閣僚等が殺され、岡田内閣も総辞職しなければなりませんでした。

<ポツダム宣言受諾条件>
 ポツダム宣言を受諾するか否かの判断の基準も、その中心に国体問題がありました。日本政府は、7月26日に発表されたポツダム宣言を黙殺しました。それは、7月に日米講和の仲介を依頼したソ連の返事もなく、ポツダム宣言にソ連の署名もなかったからです。さらに広島に原爆を落とされて悲惨きわまりない国民被害にも拘わらず、天皇と政府はソ連の仲介に一縷の望みを託し、ポツダム宣言受諾の検討すらしませんでした。
 だが、8月9日未明、ソ連軍の満州侵攻に驚愕した天皇と政府は急遽、最高戦争指導会議を開いてポツダム宣言受諾可否の検討に入らざるを得ませんでした。実は、9日の会議の開催直後に長崎に原爆が落とされたにも、原爆については何の話題にもならずに、議論の中心はもっぱら、ポツダム宣言を受諾すれば国体護持が可能か否かでありました。政府と軍部内でも意見が分かれ容易には決着がつかず、議論は断続的に延々と続き漸く10日未明、国体護持の一条件でポツダム宣言を受諾することを決定しました。米国にこの条件を認めるか否か問い合わせたところ、米国側の回答は、「最終的の日本政府の形態はポツダム宣言に遵ひ日本国民の自由に表明する意思によって決定される」とありました。天皇と政府は、これで国体護持が可能となったと判断しポツダム宣言受諾を決定したのです。これを受けて昭和天皇はラジオ放送を通じて「終戦詔書」を発表し(玉音放送)、「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ・・・神州ノ不滅ヲ信シ」、終戦を決意したことを明らかにしました。
 日本国憲法の国会審議過程でも国体が維持されたのか否かが議論になりましたが、明確な結論を得ぬままに終わりました。結局、新旧皇室典範、八木・血統主義論、小堀・国体護持論や昭和天皇の「終戦詔書」およびマッカーサーへの謝辞、等から推察すれば、国体護持という、その核心は「男系男子による皇統の維持」にあるといえます。

皇室典範の改定を拒否する安倍内閣
 現行皇室典範が国体原理を継承している限り、「日本会議」内閣である安倍内閣は、皇室典範に手を触れるようなことは到底なしえぬところです。ところが、憲法第2条は「皇位は…皇室典範の定めるところ」と規定しており、生前退位は憲法上、皇室典範の改定なしには認められない筈です。しかし、安倍内閣はこれまた旧皇室典範の増補の前例に倣い、特別法の制定で当面は切り抜けようとしているのです。
 なお、現行皇室典範が生前退位を規定しなかった重要な理由の一つに次の事情がありました。戦後、昭和天皇は戦争責任を取って退位すべきだとの声が内外から起こり、それは天皇の第一の側近である木戸幸一からでさえ出ていたのですが、天皇に退位の最終的な決意もなく、政府も退位に反対で、結局は退位を防ぐために敢えて生前退位を定めなかったのです。

象徴天皇の政治性
 憲法第4条にも拘わらず、昭和天皇の政治的行為はしばしば生じました。昭和天皇は、米軍による沖縄の長期占領を求める「沖縄メッセージ」の伝達をはじめ、GHQ最高司令官であったマッカーサーとリッジウェイとは少なくとも合計18回にわたって会見し、講和、日米安保、日本の安全保障、朝鮮戦争と原爆投下の可能性、等々について話し合いました。
 現在でも続いている公的行為としての内奏は、国務大臣が臣下の礼をとって天皇の下問に答える、政治的行為の典型の一つです。もともと、内奏は戦前、軍部の帷幄上奏に始まり、それは天皇と軍部を直結する需要なルートでしたが、さらに、内奏は広く政治と天皇を直結する手段となり、昭和天皇は戦前、内閣の組閣に関して自らの希望や見解を述べたことも稀ではありませんでした。
 戦後でも、昭和天皇は1973年、増原防衛庁長官の内奏を求め、長官は当時難航していた防衛2法の国会通過を天皇に激励された、と新聞記者に漏らしました。天皇の激励に対してではなく、その漏洩自体に対して天皇の政治的利用との批判が生じ、増原長官は辞任しました。明仁天皇になってからも内奏は続いています。内奏はこれに限らず、臣下からの天皇への政治報告なのです。1995年には小沢潔国土庁長官が阪神・淡路大地震の際に、天皇に行った内奏を漏らしたため更迭されましたが、これらは内奏の実態の一端を示す氷山の一角にすぎません。

象徴天皇制の体現者としての明仁天皇
 明仁天皇は皇太子時代以来、「親しまれる天皇制」「大衆的天皇制」の体現者としての役割を果たしてきました。皇太子成婚(1959年)に際しては、初めて民間出身の女性を皇太子妃に迎え、その妃の名前にちなんで「ミッチーブーム」と称される皇室人気が、国民の間に広く浸透しました。これ以後、これまでその生活が庶民の前には明らかにされなかった、天皇家、皇太子家、等の様子がテレビや女性週刊誌に頻繁に登場するようにもなりました。
 しかし、振り返ってみれば、この当時、日本の政治的対立はきわめて厳しいものでした。1960年には日米安保大闘争を控えており、それまでには既に、米兵の日本農婦射殺事件(ジラード事件)、砂川基地反対闘争、警職法反対闘争、教員勤評反対闘争、等々が生じていました。したがって、いわゆる「親しまれる天皇」という政策が、このような国民の間の激しい闘争や対立感情を緩和させる、という政治的目的を持っていたことは疑い得ませんでした。
 明仁天皇は即位以後、とくに災害被災者を見舞い、旧戦地への慰霊の旅など、親しまれる、祈る天皇の役割を如何なく果たしてきました。さらに、明仁天皇は折に触れては、護憲に言及し、あたかも安倍内閣に対立しているかのごとき雰囲気を醸し、そのため昭和天皇に対してはそれなりに厳しい批判の念を抱いていたリベラル派たちにさえも非常な人気を博しています。このように、明仁天皇は天皇制を波乱なく維持するためには、自らが象徴天皇の体現者として振る舞うことが最良の方法である、と信じているは間違いないことなのです。

天皇制の聖域
 明仁天皇が象徴天皇制に徹したとしても、それとは別に、およそ天皇制には一般に「菊タブー」と称されている、踏み込んではならない聖域が存在し、これを侵せば、右翼のテロ報復が待っているのです。その代表的な事例が、本島等・長崎市長狙撃事件(1990年)で、これは、昭和天皇の戦争責任を認める本島市長の市議会答弁への報復でした。
 昭和天皇の時代にも、天皇や皇太子が斬首される内容の夢物語「風流夢譚」(雑誌『中央公論』掲載)に反発して、右翼少年が嶋中中央公論社社長宅を襲い、家人二人を殺傷した事件がありました(1961年)。この事件が生じるや否や、中央公論社は自社が発行していた『思想の科学』天皇特集を、編集同人「先駆者」に無断で即座に廃棄処分としました。これは右翼のテロが引き起こした、極めて過剰な自主規制の典型的な例と言えます。戦前、天皇制批判は「皇室に対する罪」や「治安維持法」によって封じられていましたが、今日では右翼テロと自主規制が、それに代わって天皇制批判の自由を圧殺しているのです。

天皇制イデオロギーの浸透と強制
 過剰な自主規制の典型は、昭和天皇の大喪時の、政府・マスコミを挙げての自粛ムードの事実上の強制でした。これは、あたかも天皇制への恭順の意思を明白な態度によって示せ、と言わないばかりの事例でした。最近、またぞろ右翼勢力は「非国民」という言葉で、自由主義者や民主主義者を威嚇していますが、この大喪時には、自粛ムードに逆らう者には、このレッテルが貼られかねない雰囲気が蔓延していました。
 学校現場では既に、天皇制のいわば象徴である「日の丸」・「君が代」の掲揚・斉唱が強制され、思想信条の自由は全く踏みにじられたうえに、これに従わない教員は、とくに東京都と大阪府・市では、厳しい行政処分が科されています。学校教育を通じて天皇制イデオロギーの浸透と定着を図ろうとすることは、明治政府が学校教育において、「教育勅語」の強制や「天皇の肖像」の配布を通じて行おうとしたことと全く変わりがないのです。現在では、文部科学省が教科書検定において、天皇制礼賛を一つの特色とする育鵬社教科書を認可し、これを通じて天皇制イデオロギーの浸透を図ろうとしていることも、同様のことなのです。

日本国民統合の象徴の真の意味
 「国民的統合の象徴」(憲法第1条)には大きく言って二つの意味があります。その一つは、国民の間に激しい利害対立や厳しい闘争があるとしても、それらを超越し、国民的融和を願う存在としての役割です。明仁天皇は現在のところ、この側面を前面に押し出しているため、明仁天皇に共感を寄せるリベラル派が多数存在するのです。しかし、この共感自身が、天皇制それ自身を支える危険な役割を果たしていることを忘れてはなりません。
 もう一つの側面は、戦争や政治危機が深まれば、人々の一切の異議や反対を問答無用に抑えこむ超越的な存在としての役割なのです。象徴天皇制といえども、天皇制であることを見落としはならないのです。つまり、国体護持の精神と並んで、大日本帝国憲法と一体のものとして発布された教育勅語の精神が、実は象徴天皇制の背後にも隠されているのです。その勅語の核心は「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」であります。既に、教育基本法の改悪によって愛国心教育が前面に押し出されてきたように、日本会議に代表される右翼勢力は、教育勅語の精神の全面的な復活を絶えず狙っているのです。

人民的な民主共和制憲法をめざして
 明治維新は、フランス大革命=ブルジョア民主主義革命の場合とは異なって、その革命主体はブルジョアジーではなく、天皇を錦の御旗に掲げた西南雄藩の下級武士集団よる幕藩封建制度の打倒でありました。そこに成立した国家が、天皇制絶対主義国家だったのです。この権力の全面的な庇護と援助のもとに急速に成長したブルジョアジーたちは、彼らの本来の権力であるブルジョア民主的権力を打ち立てるのではなく、もっぱら絶対主義的・専制的な天皇制権力にわが身を委ねたのです。
 アジア太平洋戦争の敗北は同時に絶対主義天皇制の敗北であり、それに代わって、ブルジョアジーは突然、棚ぼた式に国家権力を手にしました。しかし、自らの力によって手に入れた権力でない限り、この権力の正統性を、ブルジョアジーの本来の権力原理=ブルジョア民主主義を自らの原理として積極的には主張しえず、反ファシズムの国際世論に強制されたブルジョア民主主義を嫌々ながら受容し、同時にブルジョアジーはそれへの抵抗としても、これまで依拠してきた天皇制の権威にも頼ることを得策としたのです。この結果が、まるで木に竹を接ぐかのごとく、ブルジョア民主主義をベースとしながらこれに天皇制を接いだ日本国憲法の成立だったのです。
 このような矛盾をすっかり解消し、基本的人権の原理と平和主義を一掃し、天皇を頂点にいただく国家を創設しようとするのが、他ならぬ自民党の「日本国憲法改正草案」の本音と言えます。
 一方、人民の側からすれば、日本国憲法の矛盾、つまり象徴天皇制と平和主義・基本的人権・民主主義との根本的な矛盾を完全に払拭するためには、恐らく極めて困難で長い道のりであろうとも、真の民主主義的憲法つまり人民的な共和制憲法の樹立を目指す以外にはない、との結論になります。