ハイチ地震で23万人超もの犠牲者が出たのはなぜか <その1>
南北アメリカを通じて第二番目の独立国、
初めての黒人共和国、最初の奴隷制廃止国ハイチ:その栄光と苦難

 1月12日のハイチ大地震で23万人を超す死者が出たことは、全世界の人々を驚かせ、人口約1,000万人(2008年)のカリブ海の小国ハイチへの関心がにわかに高まった。マスメディアの報道でも「人災」の側面や歴史的な背景が、ある程度は指摘された。しかし、ハイチ人民が被ってきた苦難について本当の意味で歴史的な根深さと現在に至るまでのその深刻さは、私たちの想像をはるかに超えるものがある。それをこのシリーズでは、歴史をさかのぼって明らかにしていきたい。
 「新大陸発見」以降のヨーロッパ諸国によるラテンアメリカやアフリカの植民地支配と奴隷貿易、その後の欧米諸国によるさらなる支配と略奪・収奪、その歴史が今にいたるまでどれほど深刻な影響を及ぼしているか。それと同時に、今なお続く現在の支配、内政干渉、搾取・収奪、そのエスカレーション。それらのことをいっそうリアルに認識することで、世界の最貧国が貧困から脱するために真に必要なことは何かということを考えていきたい。

1804年に独立し奴隷制を廃止したハイチ
 ハイチの独立は1804年である。1775〜83年のアメリカ独立戦争と1776年の独立宣言はあまりにも有名であるが、アメリカ合衆国に次ぎ南北アメリカを通じて第二番目の独立国となったハイチ革命についてはほとんど知られていない。1789年からのフランス革命に際して、フランスの植民地であったハイチ(当時は「サン=ドマング」と呼ばれていた)では、1791年に大規模な黒人奴隷の反乱が起こり、それから十数年にわたる革命闘争の末に1804年に独立を達成したのである。このハイチ革命は、当時は極めて衝撃的なことであったが、その後ほとんど忘れ去られてきた。

 当時のハイチ(サン=ドマング)では、40万人を超える黒人奴隷が3万人のフランス人奴隷所有者によって支配されていた。先住民はカリブ海地域全体で殺戮と疫病によって絶滅させられ、奴隷貿易によってアフリカから強制的に連れてこられた黒人奴隷が労働力として酷使されていた。サン=ドマングでは、黒人奴隷を使った砂糖とコーヒーのプランテーションが大規模におこなわれ、当時のフランスの経済的繁栄を支える大きな柱のひとつとなっていた。
 1789年にフランス革命が始まるとともに、フランスの植民地にもその気運は伝播し、サン=ドマング(ハイチ)で奴隷制廃止を要求する運動が高揚した。指導者トゥーサン・ルヴェルチュールの指揮の下、フランス革命政権に奴隷制廃止を迫り、その闘いは次第に共和国として独立する運動へと発展していった。フランス革命政権は、その世界史に輝くフランス人権宣言と革命思想にもかかわらず、植民地サン=ドマングの奴隷解放闘争と要求を即座に承認したのではなかった。即時承認を主張した革命家はごく一部にすぎなかった。結局のところフランス革命政権はハイチ人民の要求を受け入れ、1794年に奴隷制廃止決議をおこなう。しかしそれは、フランス革命を圧殺しようとする他のヨーロッパ諸国がフランスの植民地を略奪しようとしていたことに対する対抗措置として、奴隷制廃止を認めることでフランスに味方して闘うようにさせるためであった。その後登場したナポレオンは、奴隷制を復活させようとしたので、サン=ドマング(ハイチ)の闘いは急速に独立闘争へと発展した。そしてその闘いは、ついにナポレオンの軍を打ち破って1804年1月1日にアメリカ合衆国に次ぐ西半球第二の独立共和国を宣言する形で結実した。それもアメリカ合衆国より60年も早く奴隷制を廃止した黒人共和国として。
 しかしナポレオンの下でのフランスも、その後の王政に戻ったフランスも、当然のことながらハイチの独立を認めず、その後ハイチの苦難は長期にわたって続くことになるのである。

 この間アメリカ合衆国は、ハイチ独立に極めて冷淡であった。それは、ヨーロッパ諸国と対立することを避けたというだけにとどまらず、奴隷解放が自国に波及することを恐れたという要因が大きい。それは、他の諸国にも共通したことであった。まさにこの点にこそ、革命ハイチの燦然と輝く歴史的栄光があり、世界全体が反動化していく中でハイチ革命が抹殺されていった主たる理由があると思われる。さらに付け加えておかなければならないことは、既にこのころから米国はラテンアメリカに対する支配をねらい始めていたということである。

孤立化と封鎖に苦しめられたハイチ
 19世紀前半のウィーン体制のもとで、保守反動化したヨーロッパ諸国とフランス政府は、植民地の独立闘争を抑え込むために革命ハイチを孤立させようとした。あらゆる交易を遮断して封鎖し、圧殺しようとした。その圧力に屈せず、独立を守り通そうとしたハイチ革命政権は、本国フランスと経済的に極度に不利益な取引をすることで活路を切り開こうとした。独立の承認と引き換えに、当時の額で1億5,000万フラン(今日のほぼ210億ドル相当)を支払う協定を1825年に結んだのである。これは、ハイチ革命政府によって接収された旧フランス人支配者たちの資産を見積もったものということであったが、フランスが植民地サン=ドマングを失ったことによる経済的損失を補填しようと意図したもので、その額は当時のハイチの国家歳入額の10年間分にも相当するものであった。
 その後ハイチは、約60年かかってこの支払をおこなった。それも、自然を切り売りし破壊し、別な債務を積み上げる形で。そして、それは20世紀へと持ち越された。また、支配しようとする主要な国はフランスから米国へと移り変わり、革命政府はひとにぎりの特権層による傀儡的な政府に変わっていった。

米国による軍事占領と新たな植民地的支配
 第一次大戦がはじまると、ハイチへのドイツの干渉に対抗する形で、米国は1915年7月に海兵隊によってハイチを軍事占領した。米国による占領支配は1934年8月まで19年にわたって続いた。そしてその間に、独立時の憲法に明記されていた外国人の土地・財産の所有を禁止する条項を撤廃し、大規模プランテーションを再確立した。それは、新たな森林伐採と自然破壊をもたらした。米軍占領の後は、米国の傀儡的独裁政権が続き、デュヴァリエ一族による独裁で最高潮に達した。「パパ・ドク」と呼ばれたデュヴァリエが米国の支援によって権力に就いたのは1957年である。その後1986年まで、息子の「ベベ・ドク」・デュヴァリエとあわせて約30年にわたるデュヴァリエ独裁体制が続いた。秘密警察「トントン・マクート」による恐怖政治がおこなわれ、自然破壊と国土の荒廃がいっそう進み、対外債務は30年間で17.5倍に膨らみ、人民の貧困化がいっそう進んだ。
 特に、1971年に「べべ・ドク」が父親の後を継いだときから、IMF、世界銀行、IDB(米州開発銀行)による融資が急膨張し、食糧主権を完全に売り渡すような新自由主義的政策が急進展し、米国の巨大アグリビジネスが補助金付きの廉価な農産物をあふれさせ、ハイチの農業と食糧ネットワークを壊滅させていった。そして、土地を失った農民が失業者としてあふれ、極度の低賃金と過酷な労働条件でも働かざるをえない労働者予備軍が大量に生み出されていった。
 1986年に、ついに耐えきれなくなった人民の大衆蜂起が起こった。それによって腐敗したデュヴァリエ政権は倒され、デュヴァリエ一族は国外逃亡した。その時の国家債務は7億5,000万ドルであったが、デュヴァリエ一族が国外に隠していた富は9億ドルともいわれている。

 1990年12月に初めて民主的大統領選挙がおこなわれ、解放の神学の神父ジャン・ベルトラン・アリスティドが大統領に選ばれる。それ以降、現在に至るまでの諸過程は<その2>で詳しく見ていきたい。

 (つづく)

2010年3月15日
(H.Y.)


<その2>90年代から現在まで
 米国と特権層の権益に手をつけようとして追放されたアリスティド大統領/米国による度重なる内政干渉

<その3>新大陸発見以降の先住民虐殺・絶滅と奴隷貿易について
 殺戮と病原菌による先住民絶滅と驚愕の奴隷貿易/あらためてハイチ地震の犠牲者の多さを考える