ハイチ地震で23万人超もの犠牲者が出たのはなぜか <その3>
先住民絶滅と黒人奴隷貿易

<その1>では1804年のハイチ独立からデュヴァリエ独裁体制崩壊までの歴史を考察し、<その2>ではその後20年あまりの現在に至る諸過程をたどった。本稿<その3>では、独立前の先住民絶滅と黒人奴隷貿易の歴史までさかのぼって考察し、次稿<その4>で今一度ハイチ地震に立ち返ってまとめをおこなう。]

「新大陸発見」から半世紀で多くの先住民が絶滅させられた
 1492年のコロンブスによる「新大陸発見」以降、スペインを中心とする西欧諸国が南北アメリカをまたたくうちに植民地化していった。その過程で、武器と軍事技術において圧倒的に勝るヨーロッパ人によって、先住民がジェノサイド(民族抹殺)的に大量殺戮され、いくつかの高度に築き上げられた文明も滅ぼされた。ほとんどの地域で先住民が激減し、いくつもの民族が絶滅させられた。カリブ海域では、ほとんどの島で16世紀中頃には先住民は完全に絶滅した。
 ヨーロッパ人による「新世界」の征服は、まさにジェノサイドというにふさわしい皆殺しの殺戮によっておこなわれたのであるが、それにしてもわずか半世紀で完全絶滅にいたったところが数多くあるのには驚かされる。多くの戦闘において、文字通り一人残らず無慈悲に殺戮していくということがおこなわれた。また、捕らえられた先住民が奴隷として死ぬまで酷使された。しかしそれでも、戦闘や酷使だけで一民族全体を完全絶滅させるのは至難の業である。そこにおいて決定的な役割を果たしたのは、ヨーロッパ人には免疫ができていたが先住民には全く免疫のない天然痘などの病原菌であった。しかもそれは、ヨーロッパ人がそのような病原菌を意図せずに持ち込んだことによる副産物というようなものではまったくない。彼らは、天然痘患者が使っていた毛布を先住民のもとへ贈り物として送りつけたりもしたのである。まさに意図的に細菌戦までおこなって絶滅させたのである。

「大西洋三角貿易」と想像を絶する黒人奴隷貿易
 「大西洋三角貿易」とは、西ヨーロッパとアフリカ西岸と南北アメリカを結ぶ当時の貿易構造を表現したものである。西ヨーロッパからは、綿製品や金属製品、武器、酒類などがアフリカ西岸に運ばれ、そこでそれらが黒人奴隷と交換される。黒人奴隷は南北アメリカへ運ばれて売られる。それと引き換えに、現地のプランテーションでつくられた砂糖、コーヒー、綿花、タバコなどが購入され、ヨーロッパに持ち帰られるのである。
 このような貿易構造は、16世紀にスペイン、ポルトガルが開始し、17世紀にはイギリス、フランスが主導権を握るようになった。そして18世紀に全盛期を迎える。その中心がカリブ海域であった。

 この「大西洋三角貿易」の中間に位置する黒人奴隷貿易は、想像を絶するような、悲惨を極めたものであった。鎖につながれた男、女、子どもまで含む黒人奴隷たちは、船倉にまさにすし詰め状態で押し込まれ、40日から100日もの航海をさせられた。多くの奴隷たちが航海の途上で、疫病や脱水症、壊血病などになった。そして! それらの奴隷たちは、船上で死亡する前に容赦なく海に投げ捨てられたのである!
 この300年以上にわたる奴隷貿易においてアフリカから南北アメリカへ連れて行かれた黒人は1,000万人とも2,000万人ともいわれているが、その航海中における「死亡率」は平均して10%前後だったといわれている。死亡率にカギ括弧をつけたのは、病気になった奴隷たちが死亡前に海に投げ捨てられたから、というだけではない。長い航海の中で、食料や水が不足したときには、「人減らし」のためにも、多くの奴隷たちが生きたまま海に捨てられたのである!

西欧の繁栄を支えたプランテーションと奴隷制
 先住民が絶滅させられた土地に、黒人奴隷が連れてこられ、大規模プランテーションによるモノカルチャー的農業がおこなわれた。主たる生産物は、砂糖、コーヒー、ココア、綿、タバコなどであった。中でも砂糖は、当時ヨーロッパ人の食生活を大きく変えた最重要品のひとつであった。
 サトウキビのプランテーションは、16〜17世紀にはポルトガル領ブラジルが中心地であったが、18世紀にはフランス領サン=ドマングが最大の供給地となっていた。(ハイチ独立後はスペイン領キューバがそれにとって代わった。)
 18世紀末のフランスでは、サン=ドマングを中心とするカリブ海域の植民地との貿易が全貿易額の約25%を占め、そのうちの8割強をサン=ドマングが占めていた。そしてフランスは、この地域から輸入した砂糖やコーヒーなどの約80%を他のヨーロッパ諸国に再輸出して、大きな利益を得ていたのである。18世紀後半のヨーロッパ世界で、砂糖消費の40%、コーヒーの60%がサン=ドマングで生産されていたといわれる。

 しかし、このような大きな富の源泉である植民地でのプランテーションは、現地の豊かな自然を荒廃させ食いつぶしていくような形でおこなわれていた。ヨーロッパにおいては、土地の地味を枯渇させないような農法、輪作や家畜の堆肥を利用した農業がおこなわれていたが、植民地では、そのような配慮はまったくおこなわれなかった。地味が枯渇してくると新しい土地へ移り、また原生林をどんどん伐採していく形で、自然を破壊し土地を荒廃させながらおこなわれたのである。まさに、先住民を滅ぼしただけでなく、土地や自然までも滅ぼしていくような、許し難い収奪・略奪である。

ハイチ(=「山の多い土地」)の独立と崇高な理想
 イスパニョラ島の西側(現在のハイチ)がフランス領サン=ドマングとなったのは、1697年である。それから1世紀にわたって、豊かな自然をもつサン=ドマングは、フランスの富の大きな源泉であった。そのサン=ドマングで黒人奴隷の反乱が起き、ハイチとして独立したことは、フランスの経済にとって大打撃であった。そのような事情があったからこそ、フランス革命政府も奴隷制廃止をめぐって躊躇したのであり、その後のナポレオンも保守反動政府も、奴隷制を復活させハイチを再掌握しようとしたのである。

 ハイチという国名は、絶滅させられたタイノ・アラワク族の言葉で「山の多い土地」という意味だそうである。独立を勝ちとった黒人奴隷たちは、絶滅させられた先住民との一体性を、そしてまた豊かな自然を大切にするという気持ちを、この国名に表現したのではないだろうか。それはまた、外国からの支配・抑圧を許さないという精神のあらわれでもあると思われる。1804年の独立宣言では、「フランスの支配のもとで生きるよりは死を選ぶことを後世の人々と全世界に向かって誓約する」と述べられた。そして、独立後まもなく制定された憲法には、黒人奴隷制の永久廃棄と、外国人がハイチに財産を所有することの禁止が謳われたのである。
 だが、そのハイチが、このような崇高な理想を世界に先駆けて実現しようとしたが故に、フランスをはじめとしてヨーロッパ列強から、さらに米国からも、抑圧され孤立化させられ徹底的にいじめぬかれたのである。それが今日にいたるまで延々と続いていることは、既に見てきたとおりである。

2010年5月6日
(H.Y.)